スティーヴン・スピルバーグ
映画監督、映画プロデューサー
スティーヴン・スピルバーグの名言
スティーヴン・スピルバーグの過去の名言をまとめた名言集です。
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映画を監督する前の休暇で、私はいつも4本の映画を見ます。それらはたいてい、「7人の侍」、「アラビアのロレンス」、「素晴らしき哉、人生!」、「捜索者」です。
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映画を見に行くと、それがどんな種類のものであれ、いつも魔法だと感じます。
出典: 「Steven Spielberg: Interviews」
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映画を夢見るのではありません。それを実現するんです。
出典: newyorker「Steven Spielberg's Counterlife」
スティーヴン・スピルバーグの名言を見ている方へお薦めする名言
スティーヴン・スピルバーグの残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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SNSではまともな人付き合いはできないよね。僕は見城徹の名前を背負い、責任をもって言葉を吐き出してきたけれど、一般の人はほとんどが匿名だから、発言も無責任。真摯な人はごくわずかだよ。血の流れも、鼓動も伝わらない人と、濃いつながりができるわけがないよ。余分な時間が増えて、身動きがとれなくなるだけ。
見城徹 幻冬舎創業者
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初恋相手のようにアップルが忘れられなかった。
スティーブ・ジョブズ アップル創業者
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私を取り巻く状況がこの10年で変わったように、一人ひとりが少しでも変わることで社会もだんだん良くなっていく。
勝間和代 公認会計士、経済評論家
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以前は過去のことを振り返ってばかりいたんですが、ふと目の前の目標に集中したら嫌なことは消えていきました。
錦織圭 プロテニスプレーヤー
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終戦後に北九州へ移ったあと、父親が公職追放に遭ってお金がなかったから大学には行けなかった。その時期にはもう漫画を描いて原稿料をもらっていたから、「死んでも帰らん!」と決意して、上京したんですね。
松本零士 漫画家、イラストレーター
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ネットの記事も、見出しとか煽ってること多いよ。そっちに攻撃してやれって見出しが多い。煽ってるんだよ。その時点から。
有吉弘行 お笑い芸人
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私は江戸を去り、長く続く和を持った共同体を作ることを宣言する。国民が人の歩むべき道を歩み、数百年続いた怠惰の弊害を一掃し、国民の心を鼓舞させ、海外の国々と比肩するため、この行動を起こすのだ。これは私が自らの意思で行うことである。朝廷の公家衆も、在野の武士も、世のため人のために志を持つ者は、私の言葉を聞くのだ。
榎本武揚 幕臣、政治家
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人々の努力を、これら無防備の人々へのいくばくかの食物、避難所、医薬、衣類に振り替えられたなら、世界は必ずやより平和で、より幸せなものになることでしょう。
マザー・テレサ 慈善活動家、修道女
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自分が人生かけてやってきた、一番時間を費やしてきた、一番自信を持って勝負してきたことで、精神的に一段上に上がれるチャンスができたわけですから、それは辛いこともありますけど、だからこそ面白いし、ドキドキできるんです。
イチロー プロ野球選手、メジャーリーガー
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最終的にはボクらしさ、「矢沢永吉だよな」っていう所にいかなきゃいけない。
矢沢永吉 歌手
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風が止まったり逆風に変わったとしても持続的に前に行けることが大事で、そのようにするためには、やはりペース配分が大切。
豊田章男 トヨタ自動車社長兼CEO
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日本が独自の文化をはぐくむことができたのは、周囲の大海によって世界から分断されていたからだ。楽天にとって有利だったのは、その周囲の大海と同じ役割を果たす言語の壁が日本を取り囲んでいたということだ。
三木谷浩史 楽天創業者
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批評家とは、他人の思想について考える者に過ぎない。
サルトル 哲学者
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無理すると、本質が見えなくなる。
鈴木敏文 セブン&アイ・ホールディングスCEO
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早いけれども雑だというのもいけないし、丁寧だが遅いというのもいけない。念入りに、しかも早くというのが、今日の名人芸なのである。
松下幸之助 パナソニック創業者
スティーヴン・スピルバーグについて
スティーヴン・スピルバーグは1970年代から活躍を続けるハリウッドを代表する映画監督。代表作に「ジョーズ」、「インディー・ジョーンズ」シリーズ、「ET」、「ジュラシックパーク」、「シンドラーのリスト」、「プライベートライアン」など。映画会社ドリームワークスを設立しプロデュース業も手がける。
1946年オハイオ州シンシナティ生まれ。両親はユダヤ人で父はコンピューターのエンジニアだった。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に在学中、スティーヴン・スピルバーグはユニバーサルスタジオでインターンを経験。これがきっかけでショートフィルムを制作する機会が与えられる。この時提出した26分の35mmフィルム作品「 Amblin'」がユニバーサル幹部の目に止まり、ユニバーサルスタジオと7年間の監督としての契約を結ぶ。スティーヴン・スピルバーグはハリウッドで史上最年少の監督となった。なお、ユニバーサルとの契約で多忙となったため大学は中退している。
1972年テレビ向けに制作した「激突!」が話題となり、1974年に「続・激突! カージャック」で映画監督デビュー。1975年「ジョーズ」を公開。この映画でスティーヴン・スピルバーグは世界歴代興行収入1位を記録する。以降、「インディージョーンズ」、「ET」、「ジュラシックパーク」を大ヒットさせる。「ET」、「ジュラシックパーク」はともに世界歴代興行収入1位の記録を更新した。また、「シンドラーのリスト」、「プライベートライアン」でアカデミー賞監督賞も2度獲得している。1994年にスティーヴン・スピルバーグはジェフリー・カッツェンバーグ、デヴィッド・ゲフィンとともに映画製作会社「ドリームワークス」を設立。製作総指揮として多くの作品に関わり、「トランスフォーマー」などをヒットさせた。