明石家さんま

お笑い芸人

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明石家さんまの名言

明石家さんまの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 夢に向かって好きなことをやったらええねん。 夢は裏切れへん。女はすぐ裏切るけどな。

  • 結婚はゴールではない!スタート!しかも途中から障害物競争に変わる。

  • ただ手を抜いてもちゃんとできたらええねん。一生懸命やれば正解っていうのはものすっごい間違いやわ。俺が一番腹立つ言葉や。

    出典:  2018年4月MBSラジオ「ヤングタウン」にて

  • 追い詰められなきゃダメなんですよ、なんでも仕事は。ゆっくりやるとロクなことないですね。

  • テレビの視聴率が悪いからといって落ち込むことはありません。たくさんの演者やスタッフが関わって作ってるものなんで、一人の責任だと思いこむのは過信だと思うんです。

  • 悲しんでる人の前で悲しんであげたら、ダメでしょ?

  • 寂しいなと思ったことはないんです。寂しいというのは、余裕のある人が言うことやわ。

  • 俺は、絶対落ち込まないのよ。落ち込む人っていうのは、自分のこと過大評価しすぎやねん。過大評価しているから、うまくいかなくて落ち込むのよ。人間なんて、今日できたこと、やったことがすべてやねん。

  • 何とも思われないよりは嫌われるほうがマシ、好きに変わる可能性が残っているから。

  • 俺は笑いを順位付けるのは嫌い。自分らが面白いと思うことをやってればええねん。

  • 恋に勉強なんてないんや。勉強したつもりでも、新しい恋が始まって気が付いたらまた何にもわかってない自分がおる。それが恋ってもんや。

  • 俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や。

  • 夢は大きいほうがいい。見失わないから。

  • 俺たちは奇跡を生きてんねん。

  • テレビの番組に出るときはなにか一つおもしろい話を持っていかないといけない。俺はこれを「トークのおみあげ」と呼んでいます。何もなしに番組にでたらいけません。

  • 生きているだけで丸もうけ。

  • 世の中に誤解ほど怖いものはありません。

  • 人にやさしくできる人は、それ以上の哀しみを背負っている。

  • ずっと、ええ事して来たから夢かなったんやて。人生頑張ってきたから。

  • 明日大阪で握手会、明後日仙台で握手会、来てね、言うて飛んできてくれる男なんかおらん。彼氏かて旦那かて、そんな男おらんわ。ファンだけなんや、そんな我儘についてきてくれるんわ。そやからから恋愛は絶対隠さなあかんねん。それがファンへの礼儀や。

  • 天才が努力したら、これはもう鬼に金棒ですけど、凡人が努力したかて、その努力に敬意は表するとしても、勝ち負けは「努力」の要素だけで左右されるほど甘いもんやない思うんですわ。特に超一流の世界ではね。

  • 45歳の俺と60歳の俺では、どうやっても違うだろうと思うんです。

  • およそ30年、芸風変わってないからね。すごくないよ。これアカンことなの。人は進化する生き物として神様が産んでくれたわけですから。

  • 笑いもオーソドックスのほうがやっぱり面白いんですよ。

  • 勝ち負けは努力の要素で左右されるほど甘くない。

  • 満点なんか取らんでええねん。満天は星空だけで十分や。

  • 暗い人がちょっとでも笑うように、なるべく俺が出てる限り明るい画面を、お届けしたいという、そういうポリシーで生きてるから。

  • 人間生まれてきた時は裸。死ぬ時にパンツ1つはいてたら勝ちやないか。

  • やろうとすれば出来んねん、人間みたいなもんは。

  • 落ち込んだあなたは、頑張った証拠。

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明石家さんまについて

明石家さんまはテレビ・ラジオを中心に活躍するお笑い芸人、司会者。落語家としてスタートしたが、若くしてテレビ界に活躍の場を移した。1976年ごろからテレビへの出演を始め、1978年に桂三枝が司会だった「ヤングおー!おー!」のレギュラーになって全国区のタレントとなり、1981年放送開始の「オレたちひょうきん族」で人気に火がついた。40年以上にわたってテレビ界の人気タレントであり続けている。ビートたけしタモリとならんで、お笑いBIG3と呼ばれる。日経エンタテインメントのお笑い芸人人気調査では、調査を開始した2004年から2017年まで14年連続で「好きな芸人」部門の1位に選ばれた。

1955年奈良県奈良市生まれ。本名、杉本貴文。1974年、奈良県立奈良商業高校の3年生の時、落語家を志して2代目笑福亭松之助に弟子入りした。翌年高校を卒業すると正式に内弟子として修行を始めた。笑福亭松之助は弟子に対してはさほど厳しい師匠ではなく、比較的放任主義で自由に芸を磨くことができたという。入門後しばらくして、明石家さんまは師匠に告げずに交際中の女性と共に勝手に東京に上京し、東京で売れっ子タレントになることを目指すが、鳴かず飛ばずに終わり、師匠のもとに戻っている。

落語家としてスタートした明石家さんまだったが、落語家としての評価はさほど高くなく、それよりも喋りの面白さが注目されるようになっていた。1976年頃からテレビへの出演を初めると徐々に出演を増やし、1978年桂三枝司会の人気番組「ヤングおー!おー!」のレギュラーに抜擢。1979年には関西テレビの「誰がカバやねんロックンロールショー」で初めて司会に挑んでいる。そして1981年放送開始の「オレたちひょうきん族」では中心メンバーとして活躍。一気に全国区の人気タレントとなっていった。1985年トークバラエティ「さんまのまんま」が放送開始、1988年「あっぱれさんま大先生」放送開始。その人気ぶりから、ドラマ出演のオファーも多く1986年テレビドラマ「男女7人夏物語」、1987年テレビドラマ「男女7人秋物語」に出演。1988年「男女7人」で共演した女優・大竹しのぶと結婚したが、4年で離婚している。

大竹しのぶとの結婚時、明石家さんまは8億5000万円の豪邸を購入したが、離婚して売りに出したバブル経済が崩壊しており、3億5000万円にしかならず、5億円の負債が残ったという。これにより本人曰く「死ぬかしゃべるかしかない状態」となり、結婚時や離婚に至るエピソードをテレビ番組で披露していく。これがテレビの視聴者にはウケて、明石家さんまの人気はむしろ高まっていくようになる。1992年「さんまのからくりTV」、1994年恋愛トークバラエティ「恋のから騒ぎ」、1997年「踊る!さんま御殿!!」など代表的な番組放送開始が次々と放送を開始した。以降、明石家さんまは高い人気を継続的に保ち続け、初出演から40年以上にわたってテレビ界で活躍。各種人気調査の好きなタレントでも毎回上位にランクインする人気タレントであり続けている。