マーロン・ブランド

俳優

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マーロン・ブランドの名言

マーロン・ブランドの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 後悔は人生において無益だ。それは過去であり、我々にあるのは現在だけだ。

  • 大きすぎる成功は、大きすぎる失敗と同様にあなたを破滅へと追い込む。

  • 自分自身の道を歩む者だけは、決して追い抜かれることはない。

  • ノックダウンされるたびに、あなたは強くなる。

  • あなたが敏感であればあるほど、あなたは残忍な扱いを受け、傷口を広げ、抜け出せなくなる。鈍感であることを許容すべきだ、我々はいつも過敏でありすぎる。

  • 私は日常でも演じることがあるんだ。そしてそれを他人は無神経だと言う。私はあまりにも敏感であり、演じることは鎧をまとうようなものだ。もし部屋に200人の人がいて、一人でも私を好きでないなら、私は部屋を出る。

  • あなたの支払い額の大きさを、あなたの才能の大きさと混同してはならない。

  • 演じることは、神経症になってその衝動を表現するようなものだ。役者は浮浪者のような暮らしであり、役者を辞めることは成熟の証だ。

  • ユダヤ人はハリウッドを支配している。そして彼らの主張を広めるためにハリウッドを利用しているんだ。

  • 誰も役になり切ることなどできない。あなた自身であり続けなければ演じることはできないのだ。

  • 役者は他人の人生を理解しなければならない。そうするためには、人生における経験すべてから学ばなくてはならない。

  • あなたにまだ合ったことのない人たちは、あなたを無条件に素晴らしい人物だと考える。その後その人たちは、直接のあなたと関わりと関係のないことであなたを嫌うようになる。人々は敵がいて欲しいのだ。敵対したい相手がいて、嫌うことを愛し、愛すことを嫌う。敵が良いことしても、それを好意的には捉えなくなる。

  • 演じることは難しいことだと考える人が多いが、それは皆が朝から夜までやっていることだ。私が見た最も巧みな演技は、一般の人が感情をごまかそうとしている姿や、なにかを隠そうとしている姿だった。それは幼い頃に誰もが身につけるものなのだ。

  • ハリウッドで最も成功している人たちは、人間としては皆落語者だ。

  • 私は時折そうするのだが、裸でビーチに寝転んで、風が私の上を吹き抜け、空の星を見て、深い夜を感じた時、私の言葉では言い表せないものを感じる。そして私はそれが神だと思った。私自身、私がしたこと、しなかったこと、他人がしたことにはなんの意味もなく、私が寝転んでいる砂よりも、枕にしているココナッツよりも重要でないと悟った。それで私はあまり先のことは考えなくなったんだ。

  • 我々のポケットの中には多くの顔がありすぎるのだ。

  • 私の人生の物語は愛の探求の物語であったように思う。しかしそれ以上に、私は若くして負った傷を癒やす方法を探し続けてきた。さらに、もし私や人類に使命があるのなら、それを見つける方法を探し続けてきた。

  • 平凡さの波に飲まれてはいけない。

  • 我々は生きる中でどこへも寄り道しない。寄り道するというのは街に出たときにすることだ。我々はただ進むのみだ。

  • 女性と出会う時、私は女性の愛嬌、美、機転、知性や人間性を見る。しかし最も大切だと思うのは思いやりなんだ。

  • 役者は詩人のようなものだが、もっと人を楽しませる。

  • 私が目指すのは正常な狂気だ。

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マーロン・ブランドについて

マーロン・ブランドはアメリカの映画俳優。アカデミー主演男優賞に2度選ばれるなど、アメリカを代表する俳優として知られ、「20世紀最高」の俳優とも呼ばれる。ブロードウェイの演劇界でデビューして成功し、その後映画に進出して世界に有名な映画俳優となった。日本ではイタリア系マフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」のドン・ヴィト・コルレオーネ役が特に有名。

1924年4月3日、アメリカ・ネブラスカ州オハマに、マーロン・ブランド・シニアとドロシー・ペネベイカー・ブランドの間に生まれる。父は化学飼料や殺虫剤製造を営んでおり、母はオハマの地方劇団で演じていた女優だった。ジョセリンとフランシスという二人の姉がいた。幼い頃から両親に反抗的で、青春時代には非行に走り、リバティビル高校に入学したものの、廊下をバイクで走ったことが原因で退学処分を受ける。その後マーロン・ブランドは陸軍士官学校へと送られるが、ここでも演習中に陸軍大佐が訪問した際に反抗的な態度を取り、さらに謹慎中に街に出て捕まったことで退学となる。

陸軍士官学校退学後のマーロン・ブランドは二人の姉がニューヨークで演劇とアートを学んでいたことから、ニューヨークに移り演劇を学ぶ。1944年ごろからブロードウェイの舞台への出演を始め、次第に人気俳優となり、著名演出家エリア・カザン「欲望という名の電車」に準主役で出演。1950年「The Man」で映画デビュー。1951年エリア・カザンが監督した映画「欲望という名の電車」に抜擢され、アカデミー主演男優賞にもノミネートされるなど、世界的な映画スターの仲間入りを果たす。マーロン・ブランドは翌1952年エリア・カザン監督の「革命児サパタ」で、1953年ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督の「ジュリアス・シーザー」でアカデミー主演男優賞にノミネートを果たし、1954年エリア・カザンが監督した「波止場」でアカデミー賞主演男優賞を受賞。この頃、若手俳優として人気絶頂を迎えていた。

アカデミー賞受賞後のマーロン・ブランドは大ヒットと言える作品に恵まれず、徐々に人気が衰えていった。さらに、1960年代に入ると父の背負った借金の返済のため出演作を選ばず出演するようになり、人気の凋落が加速していった。そんな中、1972年に出演したフランシス・コッポラ監督「ゴッドファーザー」が映画興行記録を更新する大ヒットとなり、アカデミー主演男優賞にも選ばれる(映画界の人種差別に抗議して受賞は拒否)。再びマーロン・ブランドは大物俳優として輝きを見せるようになり、「地獄の黙示録」、「D.N.A」、「ブレイブ」、「スーパーマン」などに出演した。2004年死去。享年80歳。