萩本欽一
コメディアン、タレント
萩本欽一の名言
萩本欽一の過去の名言をまとめた名言集です。
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答えを探すというのが修行。教科書が無いから自分の教科書を作るんです。
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「得意なこと」と「やりたいこと」は一致しないんだよ。だから、まずは「得意なこと」を見つけなさい。それが成功すれば「やりたいこと」はできるようになってくるから。
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僕は人に「もっと頑張れ」だなんて言わないよ。頑張んなくたって別にいいの、君の人生、お好きにしてってこと。
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欠点は美点となって花開くこともある。欠点のある人がそれを克服しようと思って試行錯誤していると、それが個性として伸びていくから、独特のキャラクターが生まれるんです。
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運は正面から来ない。必ず後ろから来る。
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悪いことがあったら落ち込んで泣いて受け入れろ。人生とはそういうもんだ。
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新しいことをすると必ず失敗する。それがいいんです。
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僕だって、最初からお笑いが好きだったわけじゃない。まして才能に恵まれていたわけでもない。自分はダメだと自覚したから、努力もした。普通の人より一歩、いや「二歩下がったところから頑張ろう」と決めたんです。
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歳をとると、家庭菜園とか盆栽とか、じっとみてる趣味が多くなるけど、それじゃ駄目。歳とるほど無謀なことをした方がいいんだ。
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仕事っていうのは,結局、人と人とのつながりが大事だと思うのね。応援したいなとか、信頼できるなとか思って一緒にやっているうちに、自然にチームができてくる。
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僕はテレビに出ようとはしていない、作ろうとしているからだね。テレビの仕事が準備されているところに行こうとしているんじゃないの。新しいテレビを作りたい。
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僕の人生には勝つか逃げるかしか選択肢がないんです。勝つか負けるかの勝負はしたことがない。負けると思ったら逃げる。
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夢には一直線に向かうな。回り道が大事なんだ。
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僕、浅草で修行を始めたころ、「オマエは才能がない」と言われ続けていたの。でも、ぜんぜんめげなかったね。だって、チャップリンもエノケンも、若いころは「才能がない」と言われていたらしいから。天才と呼ばれていた人よりも才能がないと言われていた人のほうが成功している。だから、「才能がない」と言われてむしろうれしかった。「これで成功するための条件をひとつクリアしたぞ」ってね。
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人生は幸せと不幸せが50対50なんですよ。
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一度成功しちゃったことはつまんない。もっとムチャなことをやりたいんです。
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80代になっても、90代になっても、生きている限り挑戦は続けますよ。チャレンジのない人生なんて、全然面白くないからね。
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僕はね、番組の会議は一切やらないの。コンセプトを一言で伝えて,後はもう丸投げする。最初はうまくいかないです。8割方は失敗するの。でも実は、その失敗が大事なんだよね。だって、失敗したら責任者は自分の頭で本気で考えるでしょ。そうすると、本当にいいものができあがる。
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逃げは負けじゃない。逃げてから、いずれやっつける。やがては勝つんだ。
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ダメな奴ほど、ダメじゃない。
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互いに肝心なところは聞かないし言わない。だから傷つくことがない。そんな曖昧さがあればこそ、人は追い詰められずにすむのではないだろうか。
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僕がまわりから「才能がない」と言われながらもコメディアンになるのをあきらめなかったのは、自分に悪いと思ったから。一度は「絶対コメディアンになる」と決意したわけだからね。簡単にあきらめちゃったら、そう決断したときの自分に申し開きが立たないでしょ。
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コント55号時代、「坂上二郎は芸があるので残るだろうが、萩本欽一は芸がないので残らないだろう」って活字に書かれたことがショックでね。そうか、僕には芸がないのか、それなら一人でなにかやるときは「芸」とは関係ないもので勝負すればいいやと思ったの。
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どんなちっちゃなことでも損から入るといいですよ。人のために自分の時間や知恵やお金を使うと「睡眠時間が減る」とか「頭が痛い」「心が痛い」「ふところが寒い」などなど、いろいろな不都合があると思うのね。でも、それぐらいは我慢しちゃうと、あとで運になります。損のまま終わる人生ってないんです。
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自分には何が向いているか、本当にわかっている人って少ないと思います。職業だって自分が好きなことが自分に向いているとは限らないし、その人に向いていることは他人から見たほうがよくわかるんです。
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もともと才能もある上にとことん努力した人は、自分の限界を知ったら潔く認められる。こういう人の周りには、もちろんあふれるほどの運が漂ってくる。
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無駄にこそ価値がある。人がやらないことに運がくる。
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どんな小さなことでもいいから「一等賞」になること。何も学校で一番になろうだなんて、大きなところで競わなくたっていいんだよ。クラスで一番を目指してみようか。ううん、もっと小さくてもいい、クラスの中の男の一番。次はクラスの座席の列で一番。さらに座席の前後左右の中での一番。どんどん小さくしていいんだ。でもまだ一番になれないなら、隣の奴と自分とで一番はどっちかな。そこまでしても一番になれなかったら?それはね、隣をかえればいいんだよ!そうしていれば、いつかは勝つ。「勝つという味わい」をどこかで抱いていなきゃ。
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お仕事って一生懸命努力すれば腕が上がることがあるけど、芸の世界は違う。同じことをしていたら平行線があるだけ。それがある時、うまくなっていることに気がつくの。垂直に上へ、昇っている。つまり、うまくなるっていうのは、その瞬間が訪れるかどうか。そして、それは運なんだ。気づいたときには出来ているんですよ。「いつ出来るのかな」と思っているうちに、いつの間にか出来ている。
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関根勤と小堺一機は、僕が一番嫌いな芸風だからね。好きじゃないの。僕は好きではないんだけれども、テレビを見る人は好きなんだから、全然いいんです。僕に似なくてよかったんじゃないかな。彼らと一緒に仕事をしていると、気持ちがいいんだ。
萩本欽一の名言を見ている方へお薦めする名言
萩本欽一の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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自分の境遇を呪って僻み、金持ちを羨む人は、一度でも命がけで仕事をしてみて欲しい。生きていくのはきれい事ではない。利益を出さなければ社会貢献なんてできないし、愛する人を幸せにするためにも金は必要なのだ。
見城徹 幻冬舎創業者
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しっかりしたビジョンがあれば、どんな仕事もとても楽になる。決断を迫られた時や悩み事がある時も、ビジョンに立ち戻ればいい。そこから自然と進むべき道が見えてくるはず。だからこそ若いうちに、しっかりとしたビジョンを持ってほしい。
山中伸弥 医学者、iPS細胞の開発者
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これからは「個」の時代です。組織を構成する一人一人が主体性を持って行動できなければなりません。明治維新などの過去の「革命」の例を見ても、「個」が組織を利用して改革を成し遂げたのであり、今まさにそうした発想ができる人間が求められています。
松井道夫 元松井証券社長
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優秀さは偶然に身につくものではない。高い意識を持ち、誠実に努力し、賢く遂行した結果である。それは多くの選択肢から正しい選択をしたことによる。機会ではなく選択。選択が運命を決めるのだ。
アリストテレス 哲学者
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一番乗りはカキを得るが、二番目の人は貝殻しか得られない。
アンドリュー・カーネギー カーネギー鉄鋼会社創業者
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いわゆる仕事のできる子たちが集まった集団がそつなく手がけた仕事と、才能や実力が真ん中より少し下の子たちが一生懸命にやった仕事は、案外、差がないと思っています。弱点があっても、一生懸命に頑張ることが重要なんです。
糸井重里 コピーライター、株式会社ほぼ日創業者
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今日良いリーダーであるということは、10年後に良いリーダーであるということを意味しない。時代に適応しなければならないのだ。
カルロス・ゴーン 元日産自動車CEO
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仕事を本位とする以上は、その仕事がどんなであろうとも、いかに賤しく、いかに簡単であろうとも、ただ一心になって、それを努めるばかりである。こうすれば、どこにも不平の起こるべき原因がない。よい地位に昇ったからとて、われを忘れて欣喜雀躍するはずもなければ、また、その地位が下がったからとて、失望落担することもないはずだ。
高橋是清 大蔵大臣、日銀総裁、総理大臣
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僕は、仕事をすることが、働くことだと思は思っていません。「仕事=生計を維持するために一定の職に就いて働く」って思われてますよね。でも、そういう意識が僕には全くと言っていいほど、無いんです。僕はいつも心躍ることを考えていたいために、仕事をしているのです。
宮本亜門 演出家
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「これが理想的であることはわかってはいるけれど、現実にはそんなことは不可能だ」と少しでも思ってしまったら、どんなことも実現することはできない。
稲盛和夫 京セラ創業者
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「本当にやりたそうにしてる人」に仕事は渡したいんですよね。
岩田聡 元任天堂社長
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私の経験によれば、欠点のない者は取柄もほとんどない。
リンカーン アメリカ合衆国大統領
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どうすれば自分が一所懸命やらなくても達成できるか、そういった仕組みを作るのが君の仕事だ。
松井道夫 元松井証券社長
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人間は自分が思いつかないことには反対します。一方、私は人が思いつかないことには、それだけ価値があると考える。実行すれば、差別化が生まれ、結果として成功に至ります。
鈴木敏文 セブン&アイ・ホールディングスCEO
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上手くいかないとき、環境のせいにする前に、自分ができたことをやりきったかどうか自問自答すべきです。
玉塚元一 元ファーストリテイリング社長、元ローソン社長
萩本欽一について
萩本欽一は日本のコメディアン。1966年に坂上二郎とコント55号を結成して人気となり、テレビで数多くのレギュラー番組を抱えるなど大活躍。その後萩本欽一単独での出演を増やし、1980年代前半には、「欽ドン!」、「欽ちゃんのどこまでやるの!」、「欽ちゃんの週刊欽曜日」などの番組の合計で週間視聴率100%以上を稼ぎ、「視聴率100%男」と呼ばれた。1985年にレギュラー番組を全て降板して半年間休養。その後はテレビでの露出は減ったが、休養中でも唯一出演していた「欽ちゃんの全日本仮装大賞」は40年以上続く長寿番組となっている。
1941年(昭和16年)5月7日 、東京都台東区に生まれる。駒込高校卒業後、浅草の東洋劇場で研究生となり、コメディアンとしての活動を始める。同じ系列だったストリップ劇場の浅草フランス座に幕間で出演していた時、坂上二郎と知り合う。その後東洋劇場を辞めて自ら「劇団浅草新喜劇」を立ち上げ、同時にテレビへの進出も図るが失敗し劇団を解散。熱海のホテルでの営業のために一人コント「机」を書き上げる。熱海から東京に帰り、芸人仲間の坂上二郎にコント「机」について話すと二人で演じることになり「コント55号」を結成。1968年(昭和43年)前田武彦が司会を務める「お昼のゴールデンショー」にコント55号が出演すると人気に火が付き、テレビで「コント55号の世界は笑う!」、「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」、「55号決定版!」などのレギュラー番組を持ち、喜劇映画が多数公開されるなど、人気絶頂となった。
1971年(昭和46年)、萩本欽一は日本テレビの「スター誕生!」で司会者となり、単独でのテレビ出演を始める。1975年(昭和50)年にはフジテレビで「欽ちゃんのドンとやってみよう!」の放送が開始され、萩本欽一個人で冠番組を持つようになる。この頃からコント55号としての出演は徐々に減っていき、ソロ活動が増加。1976年に「欽ちゃんのどこまでやるの!」が放送開始し、1978年には日本テレビ「24時間テレビ」の初代司会者を務め、1979年から「欽ちゃんの全日本仮装大賞」が始まり、1982年「欽ちゃんの週刊欽曜日」が放送をかいしする。1980年台前半には、冠番組の毎週の視聴率の合計が100%を超え、萩本欽一は「視聴率100%男」の異名を取った。
1985年、充電として「欽ちゃんの仮装大賞」以外のレビュラーを降板し半年間の休養に入る。休養後テレビに復帰するが、休養前ほどの視聴率を稼ぐことはできずテレビでの活動は減っていった。唯一「欽ちゃんの全日本仮装大賞」は40年以上続く長寿番組となっている。