西田敏行

俳優

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西田敏行の名言

西田敏行の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 演劇にふさわしい才能があるのかと、いつも自問自答していた。負けそうになったり、折れそうになったりしたときは、先輩のすごい舞台や映画を見たりすることで「あっちにいけば間違いない」という思いを強くした。

  • 役者というアンダーシャツを着て、役者というセーターを着て、役者というコートも着ている感覚なんです。何枚脱いでも、まだ役者という服を着ていますよ、みたいなね。もっと言えば、裸になっても役者という肌がある、そんな確信を持ちたいんです。

  • 生活するために、飯を食うために何とかする―というのではなくて、「そんなことしたら生活はできないよ」と言われるぐらいの大きな夢を持っていい。ぼくは、お金は後からついてくると言ってあげたい。何を言われても夢を捨てないことだ。

  • 変な雰囲気ではなく、もっとシンプルに自分の気持ちを表現できる人間であれば、きっとほかの人も自分を理解してくれて、楽しい人生を送れるんではないかと思います。

  • 何事でも最初に持っていた熱い思いを忘れずに、きちんと自分の中で実現していくことが大事だ。

  • 僕はとにかく演じるのが好き。毛色の違う役がくるとワクワクする。俳優っていうのは、誰々が演じる「役」。役者っていうのは、この「役」を誰々が演じるっていう事。自分では自分の事を「役者」だと思っています。私は俳優・西田敏行と言われるよりも、役者・西田敏行と言われたい。

    出典:  2018年9月17日、福島県民栄誉賞の表彰式にて

  • 福島に生まれ住んで本当に良かった。自分の両親は福島県出身ではありませんが、生まれ育った福島県をずっとずっと愛しています。福島県民栄誉賞受賞は面映ゆい気持ちもありますし、とても嬉しい事なんですが、自分がそれに値するかと考えてしまう。ただ絶えず福島を想いながら仕事を続けてきたという事は自負しています。あと何年出来るか分かりませんが、これからも仕事ができるように、変わらず福島を想いながらこの賞を糧に俳優として生きていきたい。福島県民として発信し続けていきたいと思います。

    出典:  2018年9月17日、福島県民栄誉賞の表彰式にて

  • 俳優の権利の一つひとつが、ちゃんと自分たちの胸に収まる状況に早くなってほしいですね。そうなることで、俳優も俳優としての誇りを持って仕事ができるし、芝居の表現力を豊かにしていけるんじゃないかと思っています。

  • いろんな人間に接して生きていくと思うんですが、その瞬間に「あ、この人はどういう人で何を考えているんだろう?」ということが一目でわかるような人間でありたいと思いますね。

  • 「自分の親、祖父母の世代は戦後、日本を焼け野原から立ち直らせたんだ」と自分に言い聞かせて、復興支援のモチベーションを保った。

  • 自分の道と同じ道を歩んできた先輩の後ろ姿を見つめつつ、その轍というか、トレースを自分の中でも追っ掛けられるように、同じ歩幅で歩いてみる。

  • まずは、子どもと同じ夢を持ってみてください。子どもは夢に向かって歩き出すわけだから、親も親なりの努力をしなければいけない。そのときには、子どもと同じ立場で肩を組んで歩くんじゃなくて、親は一歩下がって、子どもの行く末を見てやるということが大事ではないか。

  • 自分を欺いた芝居をしない、というのは僕が心がけている一番のこと。

  • 最近の映画やテレビドラマは、どこか予定調和的になってきていないかと思うことがあります。常識外れの型破りなものを作るパワーを失っていないかと思うんです。観客を意識し過ぎて、観客に合わせたものを作ってしまうと、逆にお客さんは離れていくんじゃないかと。

  • 俳優は楽しい仕事ですよ。まぁ大変なんですけど。まず、やってる本人が、志と楽しみを持って、「演じる」という仕事をしていかないとね。

  • 日露戦争前の富国強兵の時代に、鉱毒で農民が塗炭の苦しみに喘いだときの話です。しかし、今年起きた3・11の原発事故などを考えると、今でも同じことが繰り返されているような感じで、人間はもっと歴史から学ばなければいけないという気持ちになりますね。

  • 心のどこかに、表現媒体として、舞台は自分のフランチャイズだという気持ちは常にあります。ある種の郷愁と、自分の表現力がここで磨かれたんだという思いですかね。そして、舞台に準じてクリエイティブな気持ちにさせられるのは、映画かもしれないですね。

  • 動物には動物の距離感があるように、人間同士がうまくやっていける距離感を、僕ら団塊の世代はすし詰め教室で学びました。

  • 東日本大震災のときは、とんでもないことになった、完膚なきまでにやられた、何をすれば復興になるのだろうか―とまで考えた。

  • 歌は私にとって前面に出るものではなく、演劇というカテゴリーの中の表現の一つだ。

  • 東日本大震災後の遺体安置所が舞台の「遺体明日への十日間」への出演依頼に最初は「人の命は厳粛なもの。そんなことを商業映画にしていいのか」と疑問を持ちました。

  • 「車は左、人は右。それで本当に良いのか」と先生は尋ねました。「心臓は左にある。心臓が車に近くならないよう、左を歩いた方が安全だ」と言うのです。私は「人は右」というルールにそれまで何の疑問も持ちませんでした。難しい言葉で言えば、既成概念を打破することに未来があるのではありませんか。

  • 釣りバカ日誌を平成元年から20年以上やってきて。三國連太郎さんの存在がなければ有り得ないシリーズだった。高校2年生だったけど、僕にとっては「飢餓海峡」。僕の俳優としての哲学、技術、すべてにおいて影響があったと思う。80歳を超えられても「自分は役者として才能があるんだろうか」と疑うほどの謙虚な面持ち。だからいつもやることが新しかった

  • 役者の立場として、現場で「ここ危ないけどやってくれっか」ってことになっちゃったら、現場の雰囲気を読みながら、無理してやっちゃって、怪我して、そのまんま役者人生終わった!みたいな先輩をぼくは何人か知ってます。そういった意味では、今の日本における役者の立場っていうのは弱いですよねえ。

  • ぼくが役者を生業としてきたってことには、みんなに楽しんでもらいたいっていうことが、まず第一にありますね。自分が演じることを楽しむということもあるんですけれど、その楽しさが、ご覧頂いてる皆さんに「あぁ面白いな」と思って頂けるようなね。

  • 私が5歳のときに実父が亡くなって、それから養父母に育てられたんです。その養父が公務員でしたけど、無類の映画好きでしてね。週末になると映画館に連れていってくれたもので、私も小学校5年生ぐらいには、将来は俳優になろうと考えていました。

  • 被災地に行ったら歌ってくれって言われて、アカペラで「もしもピアノが弾けたなら」を歌ったら、皆さんが聴き入ってくださる。歌っていうのは、力を持っているんだなと思いました。

  • 鈴木建設取締役社長、鈴木一之助に「昇進」致しました。どうぞよろしくお願い致します。22年の間、浜崎伝助を生きて参りましたけれど、今年から鈴木一之助を生き抜いてみたいと考えています。いろいろな考えを持っての作品への参加でしたけれど、素晴らしい若い才能たちに囲まれて、幸せな仕事をさせていただいています。

    出典:  テレビドラマ「釣りバカ日誌」で、映画版で三國連太郎が演じていた鈴木一之助を演じて

  • 福島県はボクの大切なふるさと。美しく豊かな自然と素朴であたたかな人情がボクを育ててくれました。その福島の一大事です。ふるさとの農業や森、海を守るため、ボクはできることを何でもやろうと思います。皆さん、どうかお力を貸してください。風評被害にまどわされず、福島の人々を応援してください。

  • 少年の頃から持っていた好奇心。楽しい事を考える好奇心だけは旺盛にあって。それが役者人生を支えてくれていると思います。いろんな映画をたくさん見せてくれた父にはとにかく感謝。大人としての気遣いなんかも、映画から学びました。おおらかな土地柄の福島で、明るい考え方が出来るようになったと思います。

    出典:  2018年9月17日、福島県民栄誉賞の表彰式にて

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西田敏行について

西田敏行は福島県出身の俳優。協同組合日本俳優連合理事長。テレビドラマ「西遊記」の猪八戒役、「池中玄太80キロ」の池中玄太役など、ふくよかな体型を活かしたコミカルな演技で人気者となる。映画でも活躍し「植村直己物語」の植村直己役、「敦煌」の趙行徳役、「釣りバカ日誌」の浜崎伝助役などで知られる。舞台では東宝ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」などがある。また、1981年に発売したシングル「もしもピアノが弾けたなら」がオリコン年間チャート25位のヒットとなったこともある。さらに、関西の人気番組「探偵!ナイトスクープ」では18年にわたり司会を務めた。2008年紫綬褒章受章。2018年福島県民栄誉賞受賞。

1947年(昭和22年)11月4日、福島県郡山市に生まれる。5歳で父を亡くし、母方の姉夫婦にあたる西田家に引き取られた。明治大学付属中野高校を卒業して明治大学農学部に入学。大学に通いながら日本演技アカデミーで演技を学び、大学を中退して劇団「シアター67」を結成。「シアター67」が解散すると、青年座俳優養成所に入学。卒業後に青年座座員となり舞台に出演。愛嬌のある演技や体型で注目を集めた西田敏行は1977年、テレビ朝日のテレビドラマ「特捜最前線」の刑事役に抜擢される。さらに翌1978年には日本テレビのドラマ「西遊記」で猪八戒役を演じて人気者となる。1980年、日本テレビの「池中玄太80キロ」、テレビ朝日の「サンキュー先生」で主演を務めた。1981年、池中玄太の第2シーズン主題歌としてシングル「もしもピアノが弾けたなら」を発売、オリコン年間チャート25位のヒットとなる。

西田敏行は映画界にも進出し、1979年「悪魔が来りて笛を吹く」で金田一耕助を演じて主演、1986年、植村直己物語では大学の先輩でもある植村直己を演じる。1988年に主演した「敦煌」では中国の長期ロケに挑戦した。1988年からは「釣りバカ日誌」の浜崎伝助役で出演。釣りバカ日誌は2009年まで22作が作られる大ヒット映画となった。山田洋次監督作品にも多く出演し「学校」、「学校II」、「虹をつかむ男」、「虹をつかむ男 南国奮斗篇」で主演した。2008年には日本俳優連合の理事長を里見浩太朗から引き継ぐ。同2008年西田敏行は紫綬褒章を受章した。2018年、福島県民栄誉賞を受賞。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、各劇団が上演休止に追い込まれると西田敏行は日本俳優連合理事長として政府に対して支援を要請。その是非を巡って議論が巻き起こった。