内村光良

コメディアン、タレント

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内村光良の名言

内村光良の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 仕事を受けるか受けないかは、「これをやったら、おもしろそうだな」ということを見つけられるかどうか。もしやらなかったら後悔するだろうなと思ったら、やるべきですよ。

  • 辞めていったやつらのことも今まで見てきたからね。僕の事務所でも何組もいましたし。その度に頑張ってなって握手して。そういう気持ちもやっぱり思い出しました。そういうのも背負って書かなきゃって思いましたね。

  • 「諦めない心」が一番じゃないかな。無駄なことなんて何もないっていう。それが後に生かされていくと信じて歩き続けることが大切なんだと思っています。

  • 駆け出しの頃は、月イチで必ず新作ネタを舞台用に書くと決めていました。強引に、力技で本番2日前に絞り出したこともあります。ただ、だいたいおもしろくないんですよ、追い詰められた時って。やっぱり突然、ポーンと出てくるものがおもしろい。

  • 「コンビ」って、絶対嫌いじゃない所があるから成立しているんだと思います。

  • ありきたりだけれど、努力をしながら続けること。辞めてしまったら、その時点で何もかもが終わりですから。

  • 若手時代からずっと「スタジオコント」が大好きなんです。ほこりっぽいスタジオの隅で、チマチマと笑いを構築していく。そして身内ではあるけれど、現場のスタッフたちがすごい近くで笑ってくれる。そういう現場って実はとても幸せなんですよね。若い芸人たちにも同じ空気を味わわせてあげたいと思うんです。

  • 失敗したぶんだけ成功を掴むことができたり、努力したぶんだけそれに見合う報償なり報酬がもらえるんじゃないかと僕は思っていて。努力し続けること、やり続けることを描きたかったんです。

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  • 夢を追う人はそのまま成就させてほしいけど、諦めた人も別の道でまた違う夢が見つかる。僕はそう信じています。

  • 少しでもクスって笑ってもらえたらそれでいい。「2020年にあいつなにやってんだよ」って思われるのが、もしかしたら今の私への最高の褒め言葉かもしれないですね。

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  • 街中で面白い人を見つけたらまず書き留めますね。最近書いたノートをめくって、ああこういう人いたなと思い出してネタを書くこともあります。以前は自分から進んで、おもしろい人を探そうと地下鉄を乗り継いだこともありました。でもそういう時って見つからないんですよ。偶然見かける人がおもしろい。

  • コンビはお互い絶対に嫌いなところってあると思うんですよ。でも、ほんとに嫌いだったら、どのコンビも解散していると思います。

  • まだ監督をしたっていう実感がなくて、あのメンバーがいてこそ実現したメモリアルな要素の強い作品なので、全員で作り上げたと思っています。

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  • 仕事って、フラットな気持ちで臨んだほうがいい結果を生みますね。収録前に構えないほうがいいんです。

  • 挑戦していく過程が好きなので、チャレンジしているときが一番活き活きしている。そんなふうに挑戦し続けることの大切さを多くの方に感じ取ってもらえたらいいなと思って、映画化することにしました。

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  • あぶれた同士で組もうかって。同じクラスに出川哲朗もいたんだけど、俺はなんとなく本能で「こいつとは組まないほうがいい」って察したんだよね。

  • 二人のキャラクターがわかってきて、それに寄せて書いたらウケるようになっていった。やっぱり、その人に合うコントってあるんですよね。

  • 現場で笑える我々の仕事は幸せですね。何かのアンケート結果で、1日一度も笑うことなく過ごす人が多いって聞いたことがあります。もちろん、勤務中に笑うのは難しい職種もあるでしょう。だから我々のようなお笑いを見たりして、1日のどこかで笑って過ごせたら、毎日が楽しくなるし、そうあって欲しいと思います。

  • 自分はつくづく恵まれてると思うんです。20代からコントを作らせてもらう環境を与えられてやってきましたからね。いま50代に入り、あとどれくらい、お笑いの仕事ができるんだろうと考えたら、その日の仕事をもっと大事にしたい思いは強くなるばかりですよ。

  • 映画は辛いことも多いですし、自分でロケハンから撮影、編集まで全ての段階をこなすのは時間も労力もかかってとても大変なんですけど、すごく楽しい。だから僕も他の芸人もみんな次の作品を撮りたくなってしまうんだと思います。

  • トーク番組とかに出ずに、コントに特化する人たちも最近は増えてきています。東京03なんかもそうですよね。サンドウィッチマンだって、ずっとライブを続けている。みんな自分の持ち味が分かっているし、そこをちゃんと活かしている。 私も、やっぱりネタをやる人なんですよ。ネタの中で、何かの役に入ってナンボだなって思ってやっています。

  • 私はトークの技術がそれほど高いわけではありませんから、司会だけをやっていては、いつか終わってしまうなっていう恐怖心があって、それでネタを続けているんです。たぶん、私が「アメトーーク」や「松本人志のすべらない話」に出ても、みんなよりも面白く喋れません。そういうのが自分で分かっているんですよね。じゃないと、コントライブをわざわざやってないと思いますよ。

  • たくさん仕事をするのは、やっぱりお笑いのお仕事が面白いからですね。お笑いの仕事であったり、もちろん映画は昔からやりたかったことですから。映画でも作業的にきついことはあるんですけど、やっぱり楽しさの方が勝つ。面白いからやる。バラエティも司会もコントもすべて同じです。

  • 番組の最終回っていうのはたくさん経験してきましたけど、「内P」の最終回だけはちょっと独特な雰囲気でしたねぇ。やっぱり「内P」って、みんなで作り上げていく番組だったじゃないですか。だから、ああいう何とも言えない空気になったんでしょうね。

  • やっぱりどこか、狂った部分を出したいというのがあるんでしょうね。テレビでは司会が多いので、演者として溜まっているものを年に1度出しておかないと。

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  • この世界に入って、やっぱり一番接している人が影響受けたから、やっぱタモさんと鶴瓶師匠かな、う~ん、一番長く「いいとも」でずっと一緒だった。結構、クルーザーで遊び連れてってもらったりだとか、タモさんので、鶴瓶師匠とか、俺とか乗って、すっげー楽しかった。

  • 最初はお客さんに「キャー!」って歓声で迎えられるんだけど、いざネタになると急にお笑いを見る目に変わるんだよね。

  • 自分も楽観主義の部分がありますね。仕事がない時期もありましたが、ノウノウとやっていました。酒を飲んで寝ちゃったり、朝から「寅さん」や「007」などのシリーズ映画を1巻からずーっと観て、ダラダラ過ごしたりしていましたよ。もちろん苦しかったです。苦しいんですけど「いつか、なんとかなるだろう」っていう気持ちも常にあったんです。

  • 僕はずっとテレビっ子だったので、欽ちゃんやドリフのようなお笑いも好きだったんです。そういう影響もあって、いろいろな出会いのなかでお笑いの世界に入っていったんですけど、その結果お笑いがとても好きになりました。なかでもスタジオコントは本当に楽しくて、やみつきになるほど好きになりましたね。

  • 50年生きていますからね。20、30歳じゃあ撮れなかったと思います。あとはやっぱり子どもが出来たから、泉一に子どもが生まれた以降の展開は書けたんだと思います。結婚もそう。この年になったから書けた作品。

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内村光良について

内村光良(うちむら・てるよし)はマセキ芸能社所属のコメディアン、タレント、司会者。南原清隆とお笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」を結成し、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」、「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」などの冠番組を持つ人気コンビとなる。その後内村光良個人での仕事が中心となり、「世界の果てまでイッテQ!」、「爆笑レッドシアター」などの番組の司会を務める。

1964年(昭和39年)7月22日、熊本県球磨郡あさぎり町に生まれる。小学校4年生で熊本県人吉市に転居。熊本県立人吉高校を卒業したあとは、映画監督を志して横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に入学、学校の同期にのちにコンビを組む南原清隆、お笑い芸人の出川哲朗がいた。1985年(昭和60年)、横浜放送映画専門学院の授業に漫才をする授業があり、そこで内村光良と南原清隆がともに漫才をしたのがきっかけでコンビ結成に至る。その時の漫才の講師だった内海桂子が所属するマセキ芸能社所属となった。同年、お笑い番組「お笑いスター誕生!!」のオープントーナメントサバイバルシリーズで優勝するなど活躍。1987年(昭和62年)、専門学校の同期生である内村光良、南原清隆、出川哲朗、入江雅人らで劇団SHA・LA・LAを結成。1988年(昭和63年)、ウッチャンナンチャンはダウンタウン、清水ミチコ、野沢直子とともにフジテレビの深夜コント番組「夢で逢えたら」に出演。「夢で逢えたら」は若者を中心に人気を得て深夜でありながら視聴率20%を記録するなど異例の高視聴率を獲得した。1989年、コンビでラジオ番組「オールナイトニッポン」のパーソナリティを担当。1990年半年間限定で冠番組「ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!」が放送され、その好評を受けて「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」が始まる。1993年、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」にゲスト出演した香港の歌手が収録中に頭を打って死亡。番組は打ち切られた。1996年「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」放送開始。1998年から内村光良単独でコント番組「笑う犬」に出演(のちに南原清隆も参加)。2000年、深夜バラエティ「内村プロデュース」放送開始。2007年から紀行バラエティ「世界の果てまでイッテQ!」の司会を担当。2009年から2010年まではバラエティ番組「爆笑レッドシアター」が放送された。2013年からはNHKで不定期のコント番組「LIFE!〜人生に捧げるコント〜 」が放送されている。