奥田民生

ミュージシャン、音楽プロデューサー

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奥田民生の名言

奥田民生の過去の名言をまとめた名言集です。

  • よく「バンドは一生のうち1つしか作れない」みたいな言い方をするじゃないですか。逆に言うと、この5人ではどんなにあがいてもできないこともあるわけです。それこそがバンドのよさだって気付くのは、若い頃は無理で。どうしても「もっとできるはず」って思いがちでしょう。

  • 2015年にインディーズレーベルを立ち上げて、ちゃんとしたものを出さなきゃいけないというプレッシャーから解放されました。これが大手のレコード会社だと、「もう少し金と手間をかけなさい」みたいな話になるかもしれないけど、せっかく自由にテキトーなことができる状況にあるので。自分でミュージックビデオもやってみようかなと。

  • 歌詞を書くのが一番しんどい。なんでもいいってなると、かえってどこから手を着けていいかわからない。僕の場合、特別何か言いたいことがあるわけじゃなくて。まず出したい音から始まることが多いので。

  • UNICORNで出したアルバムの「おどる亀ヤプシ」なんかは内輪のものが盛り込まれてるけど、それは聴く人にはなんのこっちゃわからなくて。だけど、だから盛り上がって作ってるという、その勢いが生まれたりしてて。そういうのが好きなんですよ。で、それを「そういった風にやりました」と言わない方が曲がなんか力を持つというか

  • 最近は無観客ライブとか、やってる人もいますけど。でも……やってもいいんだけど。ありはありですよ? ありだけど、ライブをやるのとは違うよね。ライブとは別の、番組のようなものだから。

  • 自分にとってもお客さんにとっても、ライヴがどんだけ重要か。それをやめるなんてとんでもない。ダメならダメでそれをやって、どんだけダメだったか知れ。

  • 人に見られるのが恥ですよ、僕は。その紙一重のところで暮らしている。

  • ダメとかそういう言葉じゃないほうがいいね。あいまいじゃないと言葉は。

  • フェスを成功させたければオレを呼べ!前説でもいいから。

  • そもそも自分に色彩センスやファッションセンスがあるとは思っていなかったんですよ。そういうところで周りと張り合っても仕方ないので、「家で洗濯できない服はやめよう」と。

  • ボクだって真面目な時は真面目なんですよ。

  • ピアノは満足に弾けないから、ギターがないと歌の伴奏もできないんですよ。ギターは、やっぱり好きなんですね。

  • 理由があまりにもクダラなすぎて、怒る気にもならないから、殴りたきゃ殴れば。

  • 忌野清志郎さんのイベント出たりとかして、やっぱ清志郎さんのやってきたことっていうのはすごいことなんだと思ったわけですよ。自分に置き換えるというか、こんだけのことができるのかなあと思って。結構大変だなあと思ったんですよ。

  • 毎日のようにやってるから、これが好きだ嫌いだとかあんま思わなくていいのよ。

  • 武道館で、「君が代」をやってるのは結構よかったよね。そのまんまだー、みたいなね。

  • ある意味、雨はフジロックの醍醐味ではあると思いますが。10年以上前に比べると、お客さんも慣れているというか、降って当たり前みたいな雰囲気になっていますよね。

  • さすがにもう歳なので、晴れ男の効力は失っていますね。2年前のステージのときに雨が降ってしまったから、「晴れ男としてフェスには呼ばれないな」と思ってしまいましたよ。

  • 雷も鳴りましたしね。フェスでは雨は降らないと信じていたので、高いギターを持っていったんですよ。ギターもビショビショになってしまって。わりと、晴れ男と言われていたんですが……。

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奥田民生について

奥田民生(オクダ・タミオ)は広島県出身のミュージシャン、音楽プロデューサー。人気ロックバンド「UNICORN」のボーカルとして活躍し「大迷惑」、「働く男」、「雪が降る町」、「すばらしい日々」などをヒットさせた。ソロミュージシャンとしても「愛のために」、「息子」、「イージュー★ライダー」をヒットさせた。のちにプロデュース業にも進出し、女性デュオ「PUFFY」をプロデュース。作曲も担当した「アジアの純真」、「これが私の生きる道」、「サーキットの娘」、「渚にまつわるエトセトラ」がミリオンセラーとなった。

1965年(昭和40年5月12日、広島県広島市に生まれる。広島市立二葉中学校在学中にロックバンドを結成。広島皆実高校を経て広島電子専門学校に入学。1986年、川西幸一、手島いさむを中心として広島で結成されたロックバンド「UNICORN」へと勧誘されて加入。同年UNICORNはソニーミュージックのCBSソニーオーディションに合格。バンドメンバーは上京して1987年にアルバム「BOOM」でメジャーデビューを果たす。一方で奥田民生は広島電子専門学校を中退。1989年にファーストシングル「大迷惑」を発売。オリコン最高12位のスマッシュヒットとなり、新時代を感じさせる音楽性からカリスマ的な人気を得る。その後は「スターな男」、「ブルース」、「雪が降る町」、「すばらしい日々」などをヒットさせたが、「雪が降る町」、「すばらしい日々」で作曲の奥田民生が目指した音楽で他のメンバーとの齟齬が生じた。この音楽性の違いによって1993年にUNICORNは解散。奥田民生はソロ活動を本格化させた。

1994年シングル「愛のために」を発売しミリオンセラーを達成。1996年、奥田民生は大貫亜美と吉村由美からなるソニーミュージック所属のデュオ「PUFFY」をプロデュース。デビュー曲「アジアの純真」が118万枚を売り上げるミリオンヒットとなると、「これが私の生きる道」、「サーキットの娘」、「渚にまつわるエトセトラ」など次々にヒット曲を生み出した。2002年、奥田民生は東京スカパラダイスオーケストラのシングル「美しく燃える森」に、ゲストボーカルとして参加。2009年にUNICORNが活動を再開した。