黒柳徹子

司会者、女優、作家

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黒柳徹子の名言

黒柳徹子の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 私が行くことで辛い中にいる子供たちが、何か面白そうな人が来たと思って少しでも心が和んでくれればいい。私が子供たちを抱いて、少しでも穏やかな気持ちになってくれればいい。そしてそのことを皆さんに伝え、皆さんが関心を持ってくれればいいと思っている。

  • 戦争で親を亡くした子供たちがね、本当はそうじゃないのにね、自分を責めるんです。

  • キレイだなと思う人は、自分の生活を生き生きと楽しく過ごしている。決して与えられたものではなくて、自分で楽しい生活を作っている。

  • この間やっぱりまたつくづくと考えてみたんだけど、トットちゃんのころから、私、何か変わったかしら?って。そりゃあ少しは大人っぽくなってるかもしれないけど、でも、何か面白いものがあったら飛んでいく、そういう心根の部分は全然変わっていないって分かったのね。

  • 子供の幸せを考える時、私は与えることよりも、奪わないことだと思うのです。

  • 長く生きられたらね、長く生きた者の務めがあると思うの。明るいとか、やさしいとか、何かなきゃね。

  • 個性的な子ほど仕事をやったときにうまくいくかもしれないから、ほかの人にない個性を持っている子はそこを伸ばしてあげて欲しい。ほかの人と違うからだめだと否定しちゃうのは、本当に良くないわ。子どもにとって一番がっかりしちゃうことは、否定されることでしょ。

  • 私は世界中の子供を救おうなどとは思っていない。ただ、私が伝え、みなさんから頂いた募金で少しでも子供たちが助かってくれるとうれしい。

  • 老人とは、気分が動かなくなった人のことを言う。次々と何かをしたいという気持ちでいられる人は、いくつになっても、たとえ体が動かなくても「老人」と呼ばなくていいですよね。

  • とにかく自分が何ができるのかを考えて、それで生きていけばいいと思います。

  • 夢は一人ひとり違うものです。興味や才能もみんな違うのです。それが個性というものです。どうして「こうでなくてはいけない」と決めつけるのでしょうか。

  • 見て見ぬふりできないのが人間。人のために灯りを灯せば自分の前も明るくなります。人のためにしたことは自分に返ってくるということです。

  • 私は戦争を通して、飢えの苦しみや親に会えない寂しさも知っている。私の活動を通して、少しでも世界の子供達の現状を知ってもらえれば、と思い活動している。こういった活動は、自分の出来る範囲でとにかく継続していくことが大事だと思ってます。

  • NHKでテレビに出始めた頃は個性が強すぎる、邪魔だと言われていました。でもね、私そういうことを言われてもあまりめげなかったの。めげないでいるというのは、鈍感だっていうわけではない。自分がそんなたいしたものだと思っていなかったから、「ま、こんなもんだろうな」という感じで、なんとなく「このままやっていればどうにかなるかな?」くらいに思っていたんです。

  • 確かにお金はあった方がいいけれど、そのために何でもするなんてことではなく、自分の心に楽しいように。無理せずにいる方が、長く続いていくんだと思う

  • 「つまらない」とか「ダメ」だとか、希望もないようなことを子供が言っているとしたらもったいない。それをどうしたらいいのかを考えたほうがいい。

  • 毎日、毎日けっこうおもしろいことがあるし、何をやっててもつまんないとか退屈することがありません。

  • まず、くよくよしないこと。人と自分を比べないこと。比べる人、多いんですけど、比べても意味ないことですから。

  • いつも毎日楽しい何かがあると思っている。

  • 「私、これじゃなきゃダメなの」と決め込んだりしないことが大切ね。いくつになっても変われる可能性があると思うと、ワクワクするじゃない?

  • 昔だったら、腰の曲がったヨボヨボのお婆さんを想像してた年齢ね。人間も果物と同じで、時を経たらそりゃあ萎むけれど、若い頃に「わぁかなわない」って思う何かを持っている「かっこいい大人」にたくさん出会って、若いときは若いとき、歳を重ねたら大人の美しさがあると教えてもらったの。それに、私の本質は30代から変わっていないんです。

  • お母さんたちには、小さいときは褒めることが絶対大事です。「すごいじゃない」「そんなことできるんだ」「あなた、そんなことわかってるなんてすごいじゃない」って。いいところを褒めれば、子どもは元気になっていくと、私はそう思います。

  • 小さいときから、何をやっても「いけない」と言われれば、自分が愛されてないと思い、自信もなくなると思います。

  • 私、生まれつきなのって決めちゃわないで、自分で自分なりの心の動きを楽しんだり、ものごとに興味を持つように自分を創っていく、変わっていく努力をするのも面白いと思います。

  • 本当の幸せとは何かわからないでいるより、その子はずっと幸せ。何が幸せかわからないというのは本当に不幸せなことだと思います。

  • 「日々の小さな温かさ」案外当たり前の身近なところにある私たちの暮らしこそが幸せだと思いますし、今、それに気がつかないのはとても残念なことです。

  • 人間はもうちょっと優しくしなければいけないし、できないのなら結婚しなければいい。大変なことかもしれないけれど、結婚したならちゃんとすべきと言いたい。

  • 人間というのはいつも、志を高く持って生きていかなければいけないんだなということが、だんだんわかってきたように思います。

  • 「これは違うな」と思ったらやめてもいいと私は思っている。ただ、少しは長続きするようにやってみないと、自分がその世界に才能があるかどうかもわからない。ほんのちょっとのことが意に沿わないからとやめてしまうのは勿体ない。続けていれば、きっと道は開けてくる。人に出会うこともある。

  • 降る様に仕事があった時代「こんなのやりたくない」という感じでテレビに出ている人もいましたが、視聴者にはそれは関係ない事なので、私は全力で、どうぞ見て下さいという気持ちでやっています。

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黒柳徹子について

黒柳徹子(クロヤナギ・テツコ)は東京都出身の司会者、女優、タレント、作家。東京放送劇団出身で、テレビ放送の黎明期からテレビ番組に出演。1976年から「徹子の部屋」が放送され、累計放送回数11,000回以上を誇り同一の司会者による番組の最多放送回数記録とされる。他に歌番組「ザ・ベストテン」の司会や、クイズ番組「世界・ふしぎ発見!」の回答者としても活躍。また、1981年に出版された自叙伝「窓ぎわのトットちゃん」は累計発行部数800万部を超える大ベストセラーとなっている。

1933年(昭和8年)8月9日、東京都に生まれる。父はヴァイオリニストの黒柳守綱、母はエッセイストの黒柳朝。幼少期の黒柳徹子は問題児として扱われ、小学校1年生のときに尋常小学校を退学させられ、私立のトモエ学園に転校している。香蘭女学校を経て東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科を卒業。卒業後の1953年(昭和28年)にNHK放送劇団の劇団員となる。当時はテレビ放送が開始されたばかりであり、黒柳徹子はNHK放送劇団の最初のメンバーだった。1954年、NHKのラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」の声優としてデビュー。その後「チロリン村とくるみの木」、「ブーフーウー」などテレビの人形劇で声優として活躍。さらに黒柳徹子はドラマ「若い季節」、バラエティ番組「夢であいましょう」などNHKの番組に多数起用され人気者となる。1958年(昭和33年)の「第9回NHK紅白歌合戦」で紅組の司会を担当。

その後黒柳徹子は1961年(昭和36年)にNHKを退社に文学座に研究生として所属。女優として活動した。1971年9月から1年間、演技を学ぶためニューヨークに留学。1972年9月に「徹子の部屋」の前身である「13時ショー」の司会のオファーを受けアメリカから帰国。1976年(昭和51年)からテレビ朝日で「徹子の部屋」の放送開始。1978年(昭和53年)からは大人気となったTBSの音楽番組「ザ・ベストテン」で司会を担当。1981年問題児だった黒柳徹子自身のトモエ学園での小学校時代の様子を描いた自叙伝「窓ぎわのトットちゃん」を出版。800万部を超える大ベストセラーとなった。1984年(昭和59年)、アジアから初のユニセフ親善大使に就任。1986年(昭和61年)からはTBS「世界・ふしぎ発見!」で回答者として出演。2017年(平成29年)に黒柳徹子は名誉都民に選ばれている。