忌野清志郎

ミュージシャン、ボーカリスト

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忌野清志郎の名言

忌野清志郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 世の中は悪くなっている。おそろしく退化している。何も考えない人間が増えている。甘ったれたバカが増殖している。

  • これも人生経験。この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念したい。

  • 何もすることがないから明るく引きこもってるんだ。でも結構楽しいです。

  • 今日と明日と明後日のことぐらいを考えていればいいんだよ。

  • いったい何を見て来たんだい?その若さでミイラか?可能性はどこにあるんだ?それは君の目で見て耳で聞いたものの中にしかないはずだ。

  • もうインタビューとか出ない方がいいと思うんですけどねえ。「謎の人」みたいになっている方がレコードが売れるかもしれないよねえ、うん。だいたい音楽を言葉で説明するのって不可能じゃないですか。それをやらされちゃうわけよ。参ったなあ、これも人生かなあって。

  • 口先だけじゃ海を越えられないのさ。

  • この国は島国だから、なかなか人間の本当の痛みは伝わってこない。

  • 俺は右でも左でもかまわないんだ。そんなことどーでもいいんだ。右にどんどん行ってみろ。やがて左側に来ているのさ。地球は丸いからね。

  • 本当に口うるさいロックン・ロールや、口の匂いまでするようなリズム&ブルース。そんな音楽は21世紀には無くなってしまうのだろうか。

  • 今どきレコード評なんか読んでる奴はいやしないさ。評論家が書いてることなんて、もう誰も相手にしないぜ。

  • ヘルマン・ヘッセも書いている。ユーモアが大切なんだ。ユーモアのわからない人間が戦争を始めるんだってね。

  • いいかい、気をつけろよ。だまされんなよ。腐った奴らが増えているんだ。自分を見失わないで欲しいんだ。

  • どんどん、くだらなくなっていってる。音楽もTVも低能になっていってる。殺人も犯罪も短絡的になっている。警察は庶民を守ってはくれなくなった。

  • みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね。

  • その言葉の持ってるリズム感、そういうことの方が全然大事なんだよね、ヴォーカリストには。言葉1個1個のリズムね。

  • デビュー当時ツアーに出て、何が感動したかって言うと、初めて飛行機に乗ったのと、初めてホテルというものに泊まったらビックリしたんですよ。自分ちよりも良くて。銀のお盆とかコーヒーカップとかあって、おまけに風呂まで付いてる。こっちのほうがいい暮らしできるじゃねぇかって。

  • ロリータ18号の「アメリカ珍道中」っていうビデオを見たんですよ。ライトバンみたいなのでアメリカ中を回って、自分達で物販したり、地元のラジオ局に出たりするビデオなんだけど、それ見て羨ましいなぁって思っちゃったんですよ。で、日本でも同じことやってるって聞いて、じゃあ俺達にもできないことはないんじゃないかなって。

  • 大人のくせに子供と同じような人間ばっかりになっちまったんじゃねえのか。

  • ロックの基本は愛と平和だ。

  • 癌もロックンロールだ。

  • 168cmぐらい、50kgそこそこ。胸囲は僕に抱かれてみて判断しろ。

  • ストーンズだけどさ、あのステージを観たら、なんて言うか、…孤独感が消えたんだよね。ほら、…僕は孤独でしょ。でも、もう孤独感は消えた。…うまく言えないけど。

  • 妙に前向きになるのはなぜだろう。心配はしないでくれ。このくらいのことは覚悟してた。

  • ブルースを忘れない方がいい。いろいろな名前の音楽が流行するけれど基本はすべてブルースなのだ。

忌野清志郎の名言を見ている方へお薦めする名言

忌野清志郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

忌野清志郎について

忌野清志郎(イマワノ・キヨシロウ)は東京都出身のミュージシャン。ロックバンド・RCサクセションを中心に活動し、パンクロック調の演奏スタイルが人気を呼んで、熱狂的な支持を集め後進のバンドにも影響を与えた。「ぼくの好きな先生」、「スローバラード」、「雨上がりの夜空に」、「トランジスタ・ラジオ」などのヒット曲がある。社会問題や政治問題に取り組み、反原発を主張したアルバムや、君が代を編曲した楽曲が発売中止になるなどして世間を騒がせた。

1951年(昭和26年)4月2日、東京都中野区生まれ。生後すぐに一家は東京都国分寺市に引っ越し、国分寺市で育つ。東京都立日野高校を卒業後1970年(昭和45年)にバンドRCサクセションのボーカルとしてデビュー。デビュー曲は「宝くじは買わない」。デビュー当初はフォーク調の曲が多かった。デビュー後、ロック調の曲が増えていき1970年代後半からライブシーンで人気を集めるようになる。

1980年(昭和55年)にシングル「雨あがりの夜空に」と「トランジスタ・ラジオ」、アルバム「RHAPSODY」がヒット。忌野清志郎は新進ミュージシャンとして注目されるようになる。1982年、坂本龍一とのユニットでシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発売。これ以降、RCサクセションとしての活動の傍ら、ソロミュージシャン忌野清志郎としての活動、忌野清志郎 & 2・3'S、忌野清志郎 Little Screaming Revue、ラフィータフィーなどの他バンドの活動も行うようになる。1991年(平成3年)、RCサクセションは活動を無期限休止。1995年(平成6年)、忌野清志郎は映画「119」に音楽監督として参加して日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。2006年喉頭ガンにかかったことを公表し、音楽活動を休止。2007年に復活するも再びがんにより2008年に活動を休止。2009年、癌性リンパ管症により死去。享年58歳。