菊池寛
小説家
菊池寛の名言
菊池寛の過去の名言をまとめた名言集です。
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恋愛は一時の戯れではない。人生の楽しい道草でもない。感情や気分からやるべきではない。女性にとっては、大切な生活の設計でなければならない。男性が一生の専門なり職業なりを選ぶくらい真剣に相手を選ぶべきである。生活本位以外の恋愛などやってはならない。
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人間は生きている間に、十分仕事もし、十分生活も楽しんでおけば、安心して死なれるのではないかと思う。
出典: 菊池寛「話の屑篭」
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罠をかける者も卑しい。が、それにかかる者もやっぱり卑しかったのだ。
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最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。 それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだろう。
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人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ。
出典: 菊池寛「出世」
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自分より上手だと怯じてかかると、手も足も出ない。
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人の真似をする者は、その真似るものよりは必定劣るものじゃ。そなたも、自分の工夫を専一にいたされよ。
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悪妻は百年の不作であるという。 しかし、女性にとって、悪夫は百年の飢饉である。
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不幸のほとんどは、金でかたづけられる。
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人への親切、世話は、慰みとしてしたい。義務としては、したくない。
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そりゃ君、善は美よりも重大だね。 僕にはなんと言っても重大だね。
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来世に希望をつなぐ信仰などよりも、現世をよく生きたということが、安心の種になるのではないかと思う。
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約束は必ず守りたい。人間が約束を守らなくなると社会生活はできなくなるからだ。
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人生に於て何が一番必要であるかと云うことが今更ながら分かった。 生死の境に於ては、ただ寝食の外必要なものはない。
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少数の天才や才人だけが創作の権利を壟断した文芸の貴族政治は、過去のものだ。
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人生は一局の将棋なり、指し直す能わず。
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ご主人にはご主人の主義があり、あなたにはあなたの主義があるんですもの。
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人といっしょに物を食ったとき、相手が自分よりよっぽど収入の少ない人であるときは、少し頑張ってもこちらが払う。
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とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人といわなければならないだろう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとはいえない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。
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二十五歳未満の者、小説を書くべからず。
菊池寛の名言を見ている方へお薦めする名言
菊池寛の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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一つの概念をしゃべるとき、その内容か表現に独創性がなければ、男子は沈黙しているべきだ。
司馬遼太郎 小説家
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あなたの目は、あなたの心の窓なのです。
シェイクスピア 劇作家、詩人
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不幸な家庭に育った人は強く生きる能力を持つ人。あながち不幸ではない。
美輪明宏 歌手、俳優、タレント
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どっかに行こうと私が言う どこ行こうかとあなたが言う ここもいいなと私が言う ここでもいいねとあなたが言う 言ってるうちに日が暮れて ここがどこかになっていく
谷川俊太郎 詩人、翻訳家
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自分といえる自分などが、どこにあろう。ないはずのものを、あなたは、つかもうとしておいでられる。
吉川英治 小説家
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いつまで経っても未知の部分があるからこそ、その人に対する興味が尽きることがないのだと思います。
阿川佐和子 タレント、作家
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俺ね、思うんだけどスタートラインはどうでもいいと思うんですよ。
木村拓哉 俳優、タレント
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情報共有の手段を改良するだけで人々の人生を変えることができる。
マーク・ザッカーバーグ Facebook創業者
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人間にはこの世に生きていくためには、他人にたいする「けじめ」がある。
遠藤周作 小説家
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あなたにまだ合ったことのない人たちは、あなたを無条件に素晴らしい人物だと考える。その後その人たちは、直接のあなたと関わりと関係のないことであなたを嫌うようになる。人々は敵がいて欲しいのだ。敵対したい相手がいて、嫌うことを愛し、愛すことを嫌う。敵が良いことしても、それを好意的には捉えなくなる。
マーロン・ブランド 俳優
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人の本性はみなほとんど同じである。違いが生じるのはそれぞれの習慣によってである。
孔子 思想家、儒教の祖
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貧しいから、手に入れようとするものがある。
アントニオ猪木 プロレスラー、政治家
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人は健康になろうと思ったら、西洋流に強く明るく、積極的に生きることだ。食物であろうが、色欲であろうが、欲するままに精一杯貪ることだ。
谷崎潤一郎 小説家
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一日一日を大切にしなさい。毎日の僅かな差が、人生においては大きな差となって現れるのだから。
デカルト 哲学者
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非難は愚者でもできる、理解は賢者しかできない。
デール・カーネギー 評論家、著作家
菊池寛について
菊池寛は大正から昭和初期にかけて活躍した小説家。私費を投じて創刊した雑誌「文藝春秋」が大成功を収め、実業家としても成功した。芥川賞、直木賞の創設者でもある。
1888年(明治21年)香川県香川郡高松に高松藩の儒教学者の家に生まれる。第一高等学校を経て京都帝国大学英文学科に入学。在学中に1914年(大正3年)高校時代の旧友である芥川龍之介,久米正雄らと第3次「新思潮」を創刊。大学卒業後は時事新報社の記者となる。その後菊池寛は職業小説家に転身し、「父帰る」、「忠直卿行状記」、「恩讐の彼方に」、「藤十郎の恋」、「真珠夫人」などの小説を発表。1923年(大正12年)に文芸誌「文藝春秋」を創刊。文藝春秋は人気雑誌となり菊池寛は大きな富を手にした。1935年友人の芥川龍之介と直木三十五を記念して芥川賞、直木賞を設立。第二次大戦中の1940年ごろ、菊池寛は文学者が戦争の翼賛運動を行う「文藝銃後運動」を始め、各地で講演会などを行う。1945年(昭和20年)敗戦すると、菊池寛は文藝銃後運動の責任を問われ公職追放となる。1946年(昭和23年)文芸家の地位向上、収入・生活の安定を目指して日本文藝家協会を設立した。1948年狭心症のために死亡。享年59歳。