横光利一
小説家
横光利一の名言
横光利一の過去の名言をまとめた名言集です。
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虚無へ行きつくまでの行為はすべて悪であり、虚無より這い出る行為はすべて善である。
出典: 横光利一 「覚書」
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いかなるものといえども、必ず急所を持つものだ。急所を見分け得る者は成功する。
解説: いかなるものとは「いかなる者」、「いかなる物」両方を意味している。人であっても物であっても、相手の弱点、あるいは物の要所をつかめば、自ずと物事の進め方がわかってくる。人でも物でもポイントを押さえることが大切。
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人の場合は相手の弱点、物の場合は要所をつかむことそうすることによってこちらがどうすれば良いかわかってきます。
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世界のどこかに自分の子供があるということは、全く捨て置き難い。この地を愛せずしてなるものか。
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愛という曲者にとりつかれたが最後、実にみじめだ。なぜかというと、我々はその報酬を常に計算するからだ。
横光利一の名言を見ている方へお薦めする名言
横光利一の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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誰があなたを支配しているか知りたいなら、あなたに批判されることを許さない人を見てみなさい。
ヴォルテール 哲学者
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人々は証拠に基づいて信念を持つことはできない、信念は魅力的だと思うことに基づいて作られる。
パスカル 哲学者、数学者
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無意識の感情が死ぬことはない。それらは生きたまま埋められ、のちに醜い形で姿を現す。
フロイト 精神分析学者
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他人の意見で自分の人生を決めてはならない。まず、他人はあなたのことを本当にわかっていない。さらに、あなたは他人が本心を語っているかどうかを知る由がないのだから。
ジャン=ジャック・ルソー 哲学者
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会って直に話すのが、悪感情を一層する最上の方法である。
リンカーン アメリカ合衆国大統領
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運の悪い人というのは、自分を棚に上げて人の批判ばかりしています。そういう人は、知らず知らずに運を悪くしています。
稲盛和夫 京セラ創業者
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人の表情は家の門のようなもので、広く人と交わって自由に客が訪れるようにするためには、まず門を開き、入口を掃除して打ち水をし、とにかく、来訪者が気持ちよく入れるようにすることが大切です。
福沢諭吉 思想家、教育家
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どんな些細なことでも、本気でやり続けると、思いもかけない大きな力になります。その過程では、必ず周囲の人が協力してくれるようになります。協力者が現れないのは、まだ自分が本気になっていないからです。
鍵山秀三郎 イエローハット創業者、日本を美しくする会創始者
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われわれは愛と好意には簡単に丸め込まれる。それはおそらくは余りにも容易い。しかし、脅しによって丸め込まれることは絶対にないのだ。
オットー・フォン・ビスマルク プロイセン王国首相、ドイツ帝国首相
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素顔で語る時、人はもっとも本音から遠ざかるが、仮面を与えれば真実を語りだす。
オスカー・ワイルド 小説家、詩人
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高慢な相手には、屈従すれば勝てると考えるのは誤りである。
マキャヴェリ 政治思想家
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一般的な女性は頭脳より美しさを求める。なぜなら一般的な男性は考えることはできないが、見ることはできるからだ。
マーク・トウェイン 小説家
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中傷を受けない賢人よりも、中傷を受けても動じない賢人のほうが格が上だということを知っておいてもらいたい。
ルキウス・アンナエウス・セネカ 哲学者、政治家、戯曲家
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真のリーダーでないのに、そうなろうとする選手は、味方がミスした後に叱責する。真のリーダーは選手がミスすることは想定済みだ。
ヨハン・クライフ サッカー選手、サッカー監督
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人を動かすための秘訣は、自ら動きたくなる気持ちを起こさせること。
デール・カーネギー 評論家、著作家
横光利一について
横山利一は大正から昭和初期に活躍した小説家。川端康成らと「文芸時代」を創刊。新感覚派の中心的存在と言われる。代表作に「頭ならびに腹」「上海」、「機械」、「寝園」、「紋章」など。
1898年(明治31年)福島県生まれ。早稲田大学入学後、文学にのめり込み、文学雑誌に小説を投稿し始めた。そんな中、文学仲間で親友の佐藤一英が雑誌新潮の「菊池寛氏に対する公開状」を公募に入選したのをきっかけに横山利一は菊池寛を紹介される。これ以降親交を続け、横山利一は菊池を師として仰ぐようになる。
1923年(大正12年)菊池寛が雑誌「文藝春秋」を創刊すると、横山利一はこれに参加し編集人となるとともに「蝿」を発表。文藝春秋は人気雑誌となり横山利一も世間に知られるようになった。1924年川端康成ら、文藝春秋に参加した新進作家とともに「文藝時代」を創刊し同誌上で「頭ならびに腹」を発表。評論家の千葉亀雄が同人の言語感覚の新しさに注目して「新感覚派の誕生」と評論。横山利一を含め文藝時代に参加した作家たちは新感覚派と呼ばれるようになる。以降「上海」、「機械」、「寝園」、「紋章」などを発表。1947年(昭和22年)急性腹膜炎により死去。享年49歳。