与謝野晶子

歌人

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与謝野晶子の名言

与謝野晶子の過去の名言をまとめた名言集です。

  • イヤイヤする労働はかえって人を老衰に導くが、自己の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする。

  • 厭々する労働はかえって人を老衰に導くが、事故の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする。

  • 人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい

  • 人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい。

  • あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ

  • 悲観、泣き言、不平、皮肉、非難、諦めなどに心を分かつ大人があれば、それは既に「若さ」を失い衰老の域に入った兆候である。

  • あゝおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ぬよとて 二十四までをそだてしや

  • 花ならば満開の花で、まことに華やかな青春時代が頂上だとおもうのです。

  • 私たちの夫婦関係は毎日毎日新季蒔直しを試み、毎日毎日以前にない新しい愛の生活を築き上げているのです。

  • 現代に生きようとする勇者は現代に打勝たねばならぬ

  • 私はまだ日本の政治と政治家とを混同し、後者に対する反感から前者を侮蔑するような凡俗の感情を免れずに居る。

  • 創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です。

  • 男子に偏る国の政治、久しき不正を洗ひ去らん。

  • 大人になっても此の「若さ」を保有している人達にのみいつまでも新しい生活がある。

  • 全く睦まじい夫婦、そんなものが世の中にあろうとは想像も出来ない。

  • 夫婦は毎日毎日、愛の創作をしているのだ。

  • 私たちは久しい間に幾千回の破壊と改造とを自分の恋愛に実行してきたのです。

  • 「若さ」の前に不可能もなければ、陰影も無い、それは一切を突破する力であり、一切を明るくする太陽である。

  • わたくしの生活はわたくしの命の焔の舞です。

  • 大に伸びるためには大に屈することを必要とする場合がある。日本の経済事情は正に其の場合である。

  • 世界はすべて濁るとも、日本だけは独り高く浄まりたいと思います。

  • 自分は欧州に来て見て初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位置を占め得ることの有望な事を知った。

  • かの人も此人も皆あらたまれ。春の初めに祝ぐことは是れ。

  • 私は青春の日の愛に目覚めたのです。そうして少しづつ熱情の中に人間と自然とを読むことを覚えました。

  • 特別に女子のためとして作られた書物は、すべて女子を低能児たらしめる劣等の書である。

  • 友を選ばば、書を読みて、六分の侠気、四分の熱。

  • 清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵会う人 みな美しき

  • やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君

  • 人は刹那に生きると共に永遠にも生きる。

  • 私は日本人の強くなることを欲します!個人としても、国民としても、世界人としても、強く生きることを欲します!

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与謝野晶子について

与謝野晶子は明治末期から昭和初期の歌人。女性の心情、感情を直接的に表現しつつ、芸術性の高い短歌で注目された。また、「君死にたまふことなかれ」では、日露戦争への反戦を歌で表現し議論を呼んだ。

1878年(明治11年)現在の大阪府堺市生まれ。実家の和菓子屋を手伝いながら短歌を雑誌に投稿していた。そんな中、歌会で知り合った歌人・与謝野鉄幹と知り合い不倫関係となる。与謝野晶子は鉄幹が創刊した雑誌「明星」で短歌を発表するようになり、のちに結婚した。1901年(明治34年)雑誌「明星」などに投稿した作品を鉄幹が編集し、歌集「みだれ髪」を発表。当時タブー視されていた女性のストレートな恋愛感情を短歌で表現した。「みだれ髪」での与謝野晶子の表現は当時の基準では非常に過激であったため、大きな批判にさらされたが、一方では芸術性の高さを評価する声もあった。1904年(明治38年)には「君死にたまふことなかれ」を雑誌「明星」で発表。日露戦争に従軍していた弟の無事を祈る歌で、「天皇は自ら戦争に赴かない」、「心が深ければ人が死ぬのを誉れなどとは考えない」など、体制への批判を含んでおり、議論を呼んだ。その後与謝野晶子は雑誌、新聞などで歌や詩を発表し「小扇」、「毒草」、「恋衣」などの歌集を出版。その一方、源氏物語の現代語訳にも挑み、1938年(昭和13年)「新新訳源氏物語」を刊行した。1942年(昭和17年)死去。享年63歳。