高村光太郎

詩人、彫刻家

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高村光太郎の名言

高村光太郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

  • 女が付属品を棄てるとどうしてこんなにも美しくなるのだろうか

  • 私は老人の首すじのシワを見るときほど深い人情に動かされることはない。なんという人間の弱さ、寂しさを語るものかと思う。

    出典:  高村光太郎「緑色の太陽 芸術論集」

  • 老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ

  • 詩を書かないでいると死にたくなる人だけ、死を書くといいと思います。

  • 進歩は実に遅く不確かなものです。やがて出しぬけにそれがひらかれます。人は前に出ます。けれども暗中模索の幾年かあとの事です。

  • いくら非日本的でも、日本人が作れば日本的でないわけには行かないのである。

  • 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る

  • 日常の瑣事にいのちあれ 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ われらのすべてに溢れこぼるるものあれ われらつねにみちよ

  • 一生を棒に振りし男此処に眠る。彼は無価値に生きたり。

  • 命の糧は地面からばかり出るのぢやない 都会の路傍に堆く積んであるのを見ろ そして人間の生活といふものを考へる前に まづぢつと翫味しようと試みろ

  • おれは思ふ、人間が天然の一片であり得る事を。おれは感ずる、人間が無に等しい故に大である事を。ああ、おれは身ぶるひする、無に等しい事のたのもしさよ。無をさへ滅した必然の瀰漫よ。

  • わたくし事はけちくさいから一生を棒にふつて道に向ふのだ。

  • 人を信じることは人を救ふ

  • 悪魔に盗まれそうなこの幸福を明日の朝まで何処へ埋めて置こう

  • どこかに通じている大道を 僕は歩いているのじゃない

  • 道は僕のふみしだいて来た 足あとだだから道の最端にいつでも僕は立っている

  • 重いものをみんな棄てると 風のように歩けそうです

  • 前後のわからないような、むつかしい考えに悩んだりする事がある度に、小父さんはまず足の事を思ってみる。自分がほんとにしっかり立って、頭を上にあげているかしらと思ってみる。

  • 私は人から離れて孤独になりながら あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します ヒユウマニテイの中に活躍します すべてから脱却して ただあなたに向ふのです 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです

  • 人間のからだは さんぜんとして魂を奪ふから 裸といふ裸をむさぼつて惑溺するのだ

  • みしらぬわれの かなしくあたらしきみちは しろみわたれり さびしきは ひとのよのことにして かなしきは たましひのふるさと

  • 僕は心を集めて父の胸にふれたすると僕の足はひとりでに動き出した不思議に僕はある自憑の境を得た僕はどう行こうとも思わないどの道をとろうとも思わない

  • 道端のがれきの中から黄金を拾い出すというよりも、むしろがれきそのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である

  • お前の第一の為事は 何を措いてもようく眠る事だ 眠つて眠りぬく事だ自分を大切にせよ

  • 土壌は汚れたものを恐れず 土壌はあらゆるものを浄め 土壌は刹那の力をつくして進展する

  • こころよ わがこころよ ものおぢするわがこころよ おのれのすがたこそずゐいちなれ

  • 一生を棒にふって人生に関与せよ

  • 見えも外聞もてんで歯のたたない 中身ばかりの清冽な生きものが 生きて動いてさつさつと意慾する

  • ふり返ってみると自分の道は戦慄に導く道だった

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高村光太郎の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

高村光太郎について

高村光太郎は大正、昭和初期の詩人、彫刻家。著名な彫刻家であり、塑像「手」、「黒田清輝胸像」、「光雲胸像」などで評価が高い。一方で近年は詩が学校教科書に多く掲載され、「道程」、「智恵子抄」などの詩集で広く知られるようになっている。

1883年(明治13年)東京都台東区生まれ。父は彫刻家で東京美術学校教授の高村光雲。幼くして父から彫刻技法を学び、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。一方で文学も嗜み、在学中に与謝野鉄幹の創刊した「明星」の同人となり詩を寄稿。彫刻ではロダンに感銘を受け、強い影響を受けた。東京美術学校卒業後は彫刻の修行のためニューヨーク、ロンドン、パリに留学。1909年(明治42年)に帰国した高村光太郎は1912年(明治45年)に東京・駒込にアトリエを建て美術の創作に励む一方、文筆活動を展開した。

1914年詩集「道程」を発表、1915年塑像「手」制作。1932年「黒田清輝胸像」、1935年「光雲胸像」制作。1938年高村光太郎は妻・千恵子と死別し1941年詩集「智恵子抄」を出版。1941年真珠湾攻撃が起こると、高村光太郎はこれを賞賛。戦時中は戦争を賛美する詩を多く発表した。1956年肺結核のため死去。享年73歳。