萩原朔太郎

詩人

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

萩原朔太郎の名言

萩原朔太郎の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、それの反対を記憶している人々である。

    出典:  萩原朔太郎「絶望の逃走」

  • 愛は、その愛するものを独占しようと願っている。しかしながら、愛はそれに成功してしまった後では、競争もなく、嫉妬もなく、退屈でさめやすいものに変わってくる。

    出典:  萩原朔太郎「虚妄の正義」

  • 人は新しく生きるために、たえず告別せねばならない。すべての古き親しき知己から、環境から、思想から、習慣から。

  • 人生ではアマチュアであることが、また1つの職業である。

  • 崇高な不徳は賛美される。だが卑陋(ひろう)なけち臭い者共は、どんな事情においても許されない。

    出典:  萩原朔太郎「虚妄の正義」

  • すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめて居る。

    出典:  萩原朔太郎 「新しき欲情 情調哲学」

  • 人は新しく生きるために、絶えず告別せねばならない。すべての古き親しき知己から、環境から、思想から、習慣から。

  • 社交の秘訣は真実を語らないということではない。真実を語ることによってさえも、相手を怒らせないようにすることの技術である。

    出典:  萩原朔太郎「港にて」

  • 非常な善人と、非常な悪人とは、感じがほとんど同じです。

  • 結婚の利益は、女性の本質を知ることであり、結婚の損失は、女性への幻滅を知ることである。

  • 「真面目になる」ということは、しばしば「憂鬱になる」ということの外の、何のいい意味でもありはしない。

  • 最も親しき友人というものは、常に兄弟のように退屈である。

  • 懺悔者の背後には美麗な極光がある。

  • もっとも親しき友人というのは、つねに兄弟のように退屈である。

  • 羞恥心は塩のようなものである。それは微妙な問題に味を付け、情緒をひとしお深くする。

  • 自由とは、自分が「自由である」と信ずるところの、一つの幻覚にすぎないのである。

    出典:  萩原朔太郎「虚妄の正義」

  • 音楽の演奏者や、劇の俳優たちは技術家である。彼らは芸術家ではない。なぜといって彼らは真の「創作」を持っていないじゃないか。

    出典:  萩原朔太郎「新しき欲情」

  • すべての場合を通じて、恋愛は忍耐である。

  • 男と女とが互いに相手を箒とし、味噌漉しとし、乳母車とし、貯金箱とし、ミシン機械とし、日曜の勝手道具と考える時、もはや必要から別れがたく、夫婦の実の愛情が生ずるのである。

  • 五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。

  • 愛を求める心は、悲しい長い疲れの後にきたる。それはなつかしい、大きな海のような感情である。

  • どんな妻たちも、決して夫のためには化粧しない。

  • ああ婦人は窓にふる雨の点々、しめやかな音楽のめじろいのようなものだ。

  • 我々の子供は、我々の中での原始人である。

  • おもうに人間の感情というものは、極めて単純であって、同時に極めて複雑したものである。

  • 全てのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴う。

  • 詩は悦ばしいものであるけれど、詩を求める人生は幸福ではない。

  • 酒は文明に対する一つの風刺である。

  • 雑婚から一夫一妻制度へ。一夫一妻から多夫多妻制度へ。時代はかく必然に推移して行く。

    出典:  萩原朔太郎「虚妄の正義」

萩原朔太郎に関連する名言

萩原朔太郎の残した名言を分析し、それらの名言の内容に近い名言を厳選して紹介します。

萩原朔太郎について

大正時代から昭和初期にかけて活躍した詩人。新しい感覚の口語詩を創作し、「近代叙事詩の頂点」、「日本近代詩の父」などと言われる。代表作に「月に吠える」、「青猫」、「純情小曲集、「氷島」、「猫町」など。

1886年(明治19年)群馬県に開業医の長男として誕生。群馬県前橋中学校入学後、短歌に興味を持ち従兄弟の萩原栄次に短歌を教わる。1902年16歳のとき文芸誌「新声」の上毛誌友会に出席、中学校校友会誌「坂東太郎」に短歌5首を発表。さらに「文庫」「明星」「スバル」「朱欒」等文芸誌に短歌を発表するなど、短歌の創作活動に励むようになる。1907年第六高等学校に入学したが、1910年退学。1911年慶應義塾大学部予科に入学するも、同年に退学している。1913年(大正2年)歌集『ソライロノハナ』を製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載され、詩壇で知られる存在となり、「詩歌」「創作」「異端」「アララギ」「鈴蘭」「風景」「地上巡礼」に盛んに詩を発表するようになる。1917年(大正6年)最初の詩集となる「月に吠える」を発表。1923年(大正12年)詩集「青猫」1925(大正14年)年詩集「純情小曲集」を立て続けに発表。この後、三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く迎え入れるようになった。1934年(昭和9年)詩集「氷島」を発表。同年明治大学文芸科講師となる。同年には小説「猫町」も発表している。1939年急性肺炎により死去。享年55歳。