バーナード・ショー

劇作家

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バーナード・ショーの名言

バーナード・ショーの過去の名言をまとめた名言集です。

  • テーブルの上にあるウイスキーのボトルを見て、「もう半分しか残っていない」と嘆くのが悲観主義者。「まだ半分も残っている」と喜ぶのが楽観主義者である

  • 分別のある人間は自分自身を社会へと適合させる。分別のない人間は社会への適合に抵抗する。したがって、全ての進歩は分別のない人間によってもたらされるのだ。

  • 人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。

  • 貧乏に対する恐怖に人生を支配されてしまうと、その報酬として食べていくことができるだろう。しかし生きることはできなくなる。

  • 間違いを犯すばかりの人生は、なにもしない人生よりも誇らしく、さらに有益だ。

  • 人間を賢くし人間を偉大にするものは、過去の経験ではなく、未来に対する期待である。なぜならば、期待をもつ人間は、いくつになっても学び続けるからである。

  • 自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を恐れる

  • 人生には二つの悲劇がある。一つは願望が達成されないこと、他の一つは、それが達成されることである

    出典:  バーナード・ショー「人と超人」

  • 誤った知識に気をつけなさい。それは無知よりも危険である。

  • 自分がこうなったのは環境が悪いからだ、と文句ばかり言う人がいる。私は環境なんて信用しない。この世間で立派にやっている人物は、自ら立ち上がって望むような環境を手にしたか、或いはもしそういう環境が見つからなければ、自分で作り出したという人たちなのだ。

    出典:  バーナード・ショー「カンティダ・ウォーレン夫人の職業」

  • 嘘つきの受ける罰は、人が信じてくれないというだけのことではなく、ほかの誰をも信じられなくなる、ということである。

  • 人類から愛国心をたたき出してしまわないかぎり、あなた方は決して平穏な世界を持たないでしょう。

    出典:  バーナード・ショー「オーフラハーティー」

  • ある時代において目新しいものは、その二世代前に流行ったものの復活版にすぎない。

  • 結婚はしばしば宝くじに例えられるが、それは誤りだ。宝くじなら当たることもあるのだから。

  • 相手を黙らせたからといって、相手の意見を変えられたわけではない。

  • 学び取る気持ちがなければ、経験はなにも教えてくれない。

  • 悲しい思い出は砂に書き、嬉しい思い出は石に刻め。

  • 「そんなことは不可能だ」などと言う者は、それに挑戦している者の邪魔をすべきではない。

  • あらゆる歴史は、天国と地獄の両極端の間にある世界の振動の記録にすぎない。一期間というのは、その振子の一振りにすぎないのに、各年代の人々は、世界がつねに動いているので進歩しているのだと思っている。

    出典:  バーナード・ショー「人と超人」

  • 私の冗談は、真実を語ることである。真実は、この世の中でいちばん面白い冗談である。

  • 信仰を持つ者が無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せだという事実と何も変わりはしない。

  • 愛国心とは、自分が生まれたというだけの理由で、その国が他よりも優れているという思い込みのことである。

  • 若い頃、私は10回に9回は失敗することに気がついた。だから、10倍働いた。

  • 典型的な紳士たるの条件は、上品な体面を保つことのほかは、全てを自己の名誉のために犠牲にすることである。

  • 私が一つの欲望を持つ限り、私は一つの生きる理由を持つ。満足は死である。

  • 永遠に生きようなどと思ってはいけない。それでは成功できなくなる。

  • 今や人間は鳥のように空を飛び、魚のように海中を移動することができる、しかし一つだけ欠けていることがある。それは、人間らしく生きることだ。

  • 幸福の連結した一生など、誰もがそんな一生は堪えられないだろう。

  • 女の自惚れを満足させてやるのが男の至上の喜びであるのに反し、女の至上の喜びは男の自惚れを傷つけることである。

  • 人は常に、自分の現状を自分の置かれた環境のせいだとする。私は環境など信じない。

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バーナード・ショーについて

バーナード・ショーは19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したアイルランド出身の劇作家。代表作として映画「マイ・フェア・レディ」の原作「ピグマリオン」、「男やもめの家」、「ウォーレン婦人の職業」、「シーザーとクレオパトラ」、「聖女ジョーン」などがある。その活動は劇作にとどまらず多岐にわたり、演劇や音楽の評論家、イギリスの議会議員としての活動や、ロンドンの有力大学「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」の設立にも関わった。

1856年アイルランド・ダブリン生まれ。一家は穀物の卸売業を営んでいた。8歳から15歳までの間にバーナード・ショーは4つの学校を渡り歩いた。彼は伝統的な学校制度に失望しており、のちに「学校は監獄でもあり、子どもたちが親の邪魔をしないように留めておくものでもある。」と述べている。1873年バーナード・ショーはダブリンを離れ、母とともにロンドンに移り住む。当初は音楽評論のゴーストライターとしてわずかな収入を得ながら暮らした。この頃から社会主義に魅せられるようになっていったという。その後バーナード・ショーは小説を書いたり、書評、音楽評論などを雑誌や新聞に書いて生計を立てた。1892年最初の戯曲「Widowers' Houses(やもめの家)」を独立劇場に提供。これがきっかけとなり、次々と戯曲の仕事が舞い込むようになり、「The Philanderer(女たらし)」や「Mrs Warren's Profession(ウォレン夫人の職業)」を発表。1894年の「Arms and the Man(武器と人 )」 では初めて商業的成功も収めた。1898年「Caesar and Cleopatra(シーザーとクレオパトラ)」、1913年「Pygmalion(ピグマリオン)」、1923年「Saint Joan(聖女ジョーン)」などの戯曲を発表。バーナード・ショーは人気劇作家としての地位を確立するとともにその芸術性を評価され1925年ノーベル文学賞を受賞。政治家としても活動し労働党 (イギリス)の前身となるフェビアン協会で活動。議員への立候補要請を何度も受けたが、これを断り、ロンドン・メトロポリタン行政区議会の区議会議員を無所属で務めたのみだった。1950年腎臓浮腫により死去。享年94歳。