バーナード・ショー

劇作家

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バーナード・ショーの名言

バーナード・ショーの過去の名言をまとめた名言集です。

  • 学者とは、貴重な時間を学びに費やしてしまう怠け者のことだ。

  • 二十代の頃より10倍金持ちになったという六十代の人間を見つけることは簡単だ。だが、そのうちのだれもが10倍幸せになったとは言わないはずだ。

  • 愚か者は、自分が恥ずべきことをする時、それは自分の義務だと言い張るものだ。

  • 人間が賢くなるのは経験によるものではない。経験に対処する能力に応じて賢くなるのである。

  • タバコとは、タバコの葉を紙で巻いたもので、一端には火がつき、もう一端には愚か者がいる。

  • 人生の真の喜び。自分自身がある目的のために大きく役立っていると認識すること、熱狂するのではなく自然体であること、食物で満たされながらも不平を言うこと、世界が自分を幸せにしてくれないと不満を述べること。

  • 社会主義者とは、なにも保有していないが、平等に分け与える準備のできている者たちだ。

  • 機会を待つのではない、作り出すのだ。

  • 生は全ての人間を平等にするが、死は傑出した人間を露わにする。

  • これが30分ほどの幸福なら、財布をはたいてでも買ってやるところだよ。だがね、生涯続く幸福、これには到底耐えられないね。この世の地獄だ。

  • 高潔にして有意義な人生とは、無為な人生などではなく、失敗に満ちた人生である。

  • 正確に観察する能力は、それを有していない人間から皮肉と呼ばれる。

  • 酒というものは人生という手術を耐えさせてくれる麻酔薬だ。

  • あまり他人の同情を求めると、軽蔑という景品がついてくる。

  • 1年に2、3回以上何かを考える人はほとんどいない。私が世界的な名声を得たのは、1週間に1、2回考えたからだ。

  • すべての偉大な真理は、最初は冒涜の言葉として出発する。

  • 結婚するのはバカだ。しないやつはもっとバカだ。

  • みじめな気持ちになる秘訣は、自分が幸福であるか否かについて考える時間を持つことだ。

  • 人は習慣を好む、なぜなら、それを作ったのは自分だからだ。

  • 人類同胞に対する最大の罪は、彼ら同胞を憎むことではなく、無関心であることだ。それこそ非人間性の本質である。

  • 威圧されて憎しみを持つのは、臆病者の復讐方法だ。

  • 私の人生は社会によってもたらされており、生きている限りそれに貢献するのは栄誉である。

  • 食欲以上に真実である執念はない。

    出典:  バーナード・ショー「人と超人」

  • 徳は悪いことをしないということではなく、それを欲しないということによって成り立つ。

  • 私は無神論者だが、そのことを神に感謝している。

  • 我々は過去を振り返ることによってではなく、未来に対する責任によって賢くなるのである。

  • 人間の第一の責務は、貧困と縁を切ることだ。

  • 親であるということは一つの重要な職業だ。しかし、今だかつて、子供のために、この職業の適性検査が行われたことはない。

  • 良いことをするための力を持っていれば、邪悪なことをする力も必ず持つことになる。

  • 愛とは楽しく感じられる唯一の奴隷状態だ。

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バーナード・ショーについて

バーナード・ショーは19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したアイルランド出身の劇作家。代表作として映画「マイ・フェア・レディ」の原作「ピグマリオン」、「男やもめの家」、「ウォーレン婦人の職業」、「シーザーとクレオパトラ」、「聖女ジョーン」などがある。その活動は劇作にとどまらず多岐にわたり、演劇や音楽の評論家、イギリスの議会議員としての活動や、ロンドンの有力大学「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」の設立にも関わった。

1856年アイルランド・ダブリン生まれ。一家は穀物の卸売業を営んでいた。8歳から15歳までの間にバーナード・ショーは4つの学校を渡り歩いた。彼は伝統的な学校制度に失望しており、のちに「学校は監獄でもあり、子どもたちが親の邪魔をしないように留めておくものでもある。」と述べている。1873年バーナード・ショーはダブリンを離れ、母とともにロンドンに移り住む。当初は音楽評論のゴーストライターとしてわずかな収入を得ながら暮らした。この頃から社会主義に魅せられるようになっていったという。その後バーナード・ショーは小説を書いたり、書評、音楽評論などを雑誌や新聞に書いて生計を立てた。1892年最初の戯曲「Widowers' Houses(やもめの家)」を独立劇場に提供。これがきっかけとなり、次々と戯曲の仕事が舞い込むようになり、「The Philanderer(女たらし)」や「Mrs Warren's Profession(ウォレン夫人の職業)」を発表。1894年の「Arms and the Man(武器と人 )」 では初めて商業的成功も収めた。1898年「Caesar and Cleopatra(シーザーとクレオパトラ)」、1913年「Pygmalion(ピグマリオン)」、1923年「Saint Joan(聖女ジョーン)」などの戯曲を発表。バーナード・ショーは人気劇作家としての地位を確立するとともにその芸術性を評価され1925年ノーベル文学賞を受賞。政治家としても活動し労働党 (イギリス)の前身となるフェビアン協会で活動。議員への立候補要請を何度も受けたが、これを断り、ロンドン・メトロポリタン行政区議会の区議会議員を無所属で務めたのみだった。1950年腎臓浮腫により死去。享年94歳。