田山花袋

小説家、詩人

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田山花袋の名言

田山花袋の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 何でも空想で考えず、物に当たって活発にやるがよい。その時に出てくる知恵は、空想でこね回したものより、ぐっと生き生きしている。

  • 絶望と悲哀と寂寞とに堪え得らるる勇者たれ、運命に従ふ者を勇者といふ。

    出典:  田山花袋「田舎教師」

  • 若い時の堕落はいかようにしても浮かび上ることができる。

    出典:  田山花袋「妻」

  • 恋が消えなければ、夫婦の愛情は起こらない。

  • どんな生活でも新しい生活には意味があり希望がある。

  • 書物よりも生きた人間から受けた影響の方がずっと大きい。

  • 何でも断定することはいけない。断定した時そのものは既に別なものになっている。

  • 成功不成功は人格の上に何の価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのが本当だと思う。

  • 何事も露骨でなければならん 何事も真想でなければならん 何事も自然でなければならん

  • 人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである。大勢の中に混じっていたからって孤独になるのは、わかりきったことだ。

  • 体が弱くなると、どうしても感情的になる。自分一人の孤独に堪えなくなる。他人にすがるようになる。活発な心境が保てなくなる。

  • 泣いてもらっても、悲しんでもらっても、慰めてもらっても、要するに、その身は独り死ななければならない。

  • 誰でも顔の中にその人の生涯が表れて見える。

  • 戦場は大いなる牢獄である。いかにもがいても焦っても、この大いなる牢獄から脱することはできぬ。

  • 行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠い情けないものはない。

  • 人間は理想が無くっては駄目です。

  • 人生は長い。運命は奇しき力を持っている。

  • 結婚当座の甘い快楽も段々と薄らいでいった。半年経った頃は一番破綻の生じ易い時だという。表には平和を装っていても、腹ではいろいろな不平がきざす。

    出典:  田山花袋「生」

  • センチメンタリズムということは、こうありたい、ああありたいと思う願いを誇張して、理想形から空想的になっていった形をいうのである。

    出典:  田山花袋「痕跡」

  • 恋愛は本能である。

  • 毎日掃いても落ち葉がたまる。これが取りも直さず人生である。

  • 旅はどんなに私に生々としたもの、新しいもの、自由なもの、まことなものを与えたであろうか。旅に出さえすると、私はいつも本当の私となった

    出典:  田山花袋「東京の三十年」

田山花袋の名言を見ている方へお薦めする名言

田山花袋の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

田山花袋について

田山花袋は明治から大正にかけて活躍した小説家、詩人。尾崎紅葉の弟子。フランスの自然主義文学を日本文学に取り入れた。「蒲団」は日本で初めて書かれた私小説と言われる。代表作に「蒲団」、「生」、「田舎教師」、「緑」など。

1872年(明治4年)現在の群馬県館林市に生まれる。兄は「大日本地震史料」、「大日本古文書」を編纂した田山實。田山家は代々秋元藩に使える藩士だったが、明治維新に伴って武士としての地位を失い、1876年、田山花袋が4歳のとき父は警察官となる。しかし、1877年父は西南戦争に従軍して死去した。1880年丁稚奉公に出るが、うまくいかずに1882年に実家に戻る。1884年から旧館林藩が設立した漢学塾で漢文や和歌、西洋文学を学ぶ。兄とともに上京し、1891年尾崎紅葉の弟子となった。この頃、柳田國男国木田独歩島崎藤村らと知り合い、影響を受けた。1897年田山花袋は国木田独歩柳田國男と詩集「抒情詩」を発表。1902年(明治35年)「重右衛門の最後」を発表。この作品からフランス文学の影響を受け、人間を赤裸々に描く作風となる。1906年(明治39年)文学雑誌「文章世界」の編集主任となる。1907年「蒲団」を発表。「蒲団」では中年作家の女弟子の心情を描き、女弟子が作家の元を去ったのち作家が女弟子の下着に顔を埋めて匂いをかいで涙するというあまりにも赤裸々な描写が話題を呼んだ。さらに田山花袋は「生」、「妻」、「緑」、「田舎教師」を精力的に発表。島村藤村とならんで日本の自然主義文学を代表する作家と言われる。1928年(昭和3年)喉頭癌により死去。享年58歳。