徳冨蘆花

小説家

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徳冨蘆花の名言

徳冨蘆花の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 新しいものは常に謀反である。…我等は生きねばならぬ。生きる為に謀反をしなければならぬ。

  • 人は愛せずして生きることができず、また、愛されずして生きることはできない。

  • 欠点は常に裏から見た長所である

  • 己が造った型に囚われ易いのが人の弱点である。

  • 何処の砂漠にも多少の緑地はある

  • 謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。

  • 人間の第一職分は、自家の天職を探求するのが第一で、その天職をどこまでも遂行するのが、第二の本分であろう。

  • あまり多く果実をつくるの枝は折る。

    出典:  徳冨蘆花「自然と人生」

  • 人は生きなければならぬ。生きるためには戦わなければならぬ。名は掲げねばならぬ。金は儲けなければならぬ。命がけの勝負はしなければならぬ。

    出典:  徳冨蘆花「思い出の記」

  • 世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。

  • 人間の目的は、富士山に登るようなものじゃと俺は思う。登りゃ登る程急峻困難になってくる。

  • 新しいものは常に謀叛である。

  • 幸福は心の貧しきにある。感謝は物の貧しきにある。

  • 人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる。

  • とかく人間は忙しい時ほど仕事がよくできる。

  • 死んで誰一人泣いてくれるものもないくらいでは、生きがいのないものだね。

  • 地位ができたら気焔は無くなる。

  • 永遠の二字は、海よりもむしろ大河のほとりにあって思う。

  • 子を知る親に若も子を知らざることもまた往々にして親に若かず。

  • 偉い人の妻に評判の好いのは滅多にない。

  • 夫婦仲のよいのは、楽器の調子がうまく会っていくのを聞くように、よそ目よそ耳にもわるくないもの。

  • 人間は何故死ぬのでしょう。千年も万年も生きたいわ。

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徳冨蘆花の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

徳冨蘆花について

徳冨蘆花は明治から大正にかけて活躍した小説家。代表作に「不如帰」、「思出の記」、「黒潮」、「寄生木」など。熊本洋学校や同志社で学んだ影響でキリスト教徒となり、作品にもその影響が強い。また、トルストイに心酔しており、ロシアに訪問してトルストイと実際に会ったこともある。

1868年(明治元年)熊本県生まれ。徳富家は惣庄屋や代官などを務めてきた名家だった。兄の徳富蘇峰は自由民権運動に参加して、のち民友社を設立。「国民之友」「国民新聞」を発刊した著名なジャーナリスト。徳冨蘆花は熊本洋学校に入学し、卒業後は同志社英学校に入学。それらの学校での影響によりキリスト教に入信した。同志社を退学して故郷の熊本に戻り兄・蘇峰の経営する私塾「大江義塾」で学ぶ。1889年(明治22年)上京して兄・蘇峰の設立した民友社に入って翻訳・評論などを執筆。1898年(明治31年)から国民新聞に掲載した「不如帰(ほととぎす)」が人気となり、1900年(明治33年)刊行されて大ヒットとなった。続いて徳冨蘆花は随筆「自然と人生」、「おもひ出の記」を出版。1902年(明治35年)発表の「黒潮」ではその政治的内容から兄・蘇峰と対立して民友社を去った。その後は自身が作家として尊敬するトルストイ訪問の旅に出る。帰国後、徳冨蘆花は東京都世田谷区で農業をしながら執筆活動に励む。「寄生木」、「みみずのたはこと」、「黒い目と茶色の目」、「蘆花日記」などを出版。1927年狭心症により死去。享年58歳。