徳冨蘆花
小説家
徳冨蘆花の名言
徳冨蘆花の過去の名言をまとめた名言集です。
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新しいものは常に謀反である。…我等は生きねばならぬ。生きる為に謀反をしなければならぬ。
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人は愛せずして生きることができず、また、愛されずして生きることはできない。
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欠点は常に裏から見た長所である
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己が造った型に囚われ易いのが人の弱点である。
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何処の砂漠にも多少の緑地はある
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謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。
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人間の第一職分は、自家の天職を探求するのが第一で、その天職をどこまでも遂行するのが、第二の本分であろう。
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あまり多く果実をつくるの枝は折る。
出典: 徳冨蘆花「自然と人生」
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人は生きなければならぬ。生きるためには戦わなければならぬ。名は掲げねばならぬ。金は儲けなければならぬ。命がけの勝負はしなければならぬ。
出典: 徳冨蘆花「思い出の記」
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世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。
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人間の目的は、富士山に登るようなものじゃと俺は思う。登りゃ登る程急峻困難になってくる。
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新しいものは常に謀叛である。
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幸福は心の貧しきにある。感謝は物の貧しきにある。
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人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる。
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とかく人間は忙しい時ほど仕事がよくできる。
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死んで誰一人泣いてくれるものもないくらいでは、生きがいのないものだね。
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地位ができたら気焔は無くなる。
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永遠の二字は、海よりもむしろ大河のほとりにあって思う。
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子を知る親に若も子を知らざることもまた往々にして親に若かず。
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偉い人の妻に評判の好いのは滅多にない。
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夫婦仲のよいのは、楽器の調子がうまく会っていくのを聞くように、よそ目よそ耳にもわるくないもの。
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人間は何故死ぬのでしょう。千年も万年も生きたいわ。
徳冨蘆花の名言を見ている方へお薦めする名言
徳冨蘆花の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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当の大人になるには詰まるところ、他人のため、誰かのために生きなきゃいけないんだ、と分かることが必要なんだけど、それには試練がないと分からないんだな。苦しい、切ないことが人を育てるんだけど、残念ながら試練が来ないんだよ。仮に来ても面倒くさいから逃げてしまうでしょう?
伊集院静 小説家、作詞家
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今日のたいていの読者は、自分の読む文章の作者が誰であるか、何をしている人かということをある程度知らないうちは、なかなかその文章を褒めたり貶したりしたがらない。
ベンジャミン・フランクリン アメリカの政治家、科学者
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逆に聞きたいんですけど、過去に点数つけて何か意味はありますか?
林修 予備校教師、タレント
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口紅ぐらい、時代とか流行とは別に「自分はこれが好き!」って言えるくらいじゃないと、人としてダメじゃない?
マツコ・デラックス タレント
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無為にだらしない生き方をするより真剣に生きるほうが、たとえ短命でも値打ちがあります。
瀬戸内寂聴 小説家、僧侶
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いまの日本は様々な改革が必要ですが、各方面を説得し、実行するのはきわめて難しい。そこで必要なのは、すべての基礎、つまり世の中の基を変えることが必要です。崩れかかった大伽藍をあれこれ補修するのではなく、その基盤構造を入れ替えるのです。世の中の基礎中の基礎、それは人々の持つ価値観、何が楽しく、何が正しいかという価値観です。
堺屋太一 経済評論家、小説家
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劇場で我を忘れるひとときだけ、時間の支配から逃れられる。
井上ひさし 劇作家、放送作家、小説家
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大人とは、裏切られた青年の姿である。
太宰治 小説家
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高さがいるから階級が必要なのであり、階段とそれを登っていく人たちの矛盾が必要なのだ!人生は登ろうとする。登りながら自己を克服しようとするのである。
ニーチェ 哲学者
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ホントに羽を伸ばして生きていけるなって思えるのは、親が死んだときだと思う。
マツコ・デラックス タレント
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簡単に感化されることはたぶん、十代の特権に違いない。
伊坂幸太郎 小説家
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精神のいちばん美しい特権のひとつは、老いて尊敬されることである。
スタンダール フランスの作家
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日本は確かに過去の戦争でアジアの国々に迷惑もかけただろう。しかしながらいつまでもそのことだけにとらわれ、形式的に頭を下げ続けるだけの姿勢では何の関係の発展も望めない。
石原慎太郎 作家、政治家
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人生の目的は死なないこと。
蛭子能収 漫画家、タレント
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よく「努力することに意味がある」と言われますが、そんなのは単なる人生論。
見城徹 幻冬舎創業者
徳冨蘆花について
徳冨蘆花は明治から大正にかけて活躍した小説家。代表作に「不如帰」、「思出の記」、「黒潮」、「寄生木」など。熊本洋学校や同志社で学んだ影響でキリスト教徒となり、作品にもその影響が強い。また、トルストイに心酔しており、ロシアに訪問してトルストイと実際に会ったこともある。
1868年(明治元年)熊本県生まれ。徳富家は惣庄屋や代官などを務めてきた名家だった。兄の徳富蘇峰は自由民権運動に参加して、のち民友社を設立。「国民之友」「国民新聞」を発刊した著名なジャーナリスト。徳冨蘆花は熊本洋学校に入学し、卒業後は同志社英学校に入学。それらの学校での影響によりキリスト教に入信した。同志社を退学して故郷の熊本に戻り兄・蘇峰の経営する私塾「大江義塾」で学ぶ。1889年(明治22年)上京して兄・蘇峰の設立した民友社に入って翻訳・評論などを執筆。1898年(明治31年)から国民新聞に掲載した「不如帰(ほととぎす)」が人気となり、1900年(明治33年)刊行されて大ヒットとなった。続いて徳冨蘆花は随筆「自然と人生」、「おもひ出の記」を出版。1902年(明治35年)発表の「黒潮」ではその政治的内容から兄・蘇峰と対立して民友社を去った。その後は自身が作家として尊敬するトルストイ訪問の旅に出る。帰国後、徳冨蘆花は東京都世田谷区で農業をしながら執筆活動に励む。「寄生木」、「みみずのたはこと」、「黒い目と茶色の目」、「蘆花日記」などを出版。1927年狭心症により死去。享年58歳。