吉川英治

小説家

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吉川英治の名言

吉川英治の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ。

  • 登山の目標は、山頂ときまっている。しかし、人生の面白さ、生命の息吹の楽しさは、その山頂にはなく、却って、逆境の、山の中腹にあると言っていい。

  • 無心さ、純粋さ、素直さなどは人の心を打つ。その力は、こざかしい知恵をはるかに凌駕する。

  • やはり世間はひろい。秀でた人物がいないではない。ただ、世の平静なる時は、いないように見えるだけだ。

  • 勝つは負ける日の初め、負けるはやがて勝つ日の初め。

    出典:  吉川英治「新・平家物語」

  • 英雄もただ英雄たるばかりでは何もできない。覇業を成す者は、常に三つのものに恵まれているという。天の時と、地の利と、人である。

  • 百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。人生、いつの場合も同じである。

  • 戒めなければならないのは味方同士の猜疑である。味方の中に知らず知らず敵を作ってしまう心なき業である。

  • 近頃の人は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけたりしているが、そんな老成ぶった振る舞いを若い奴らが真似するに至っては言語道断じゃ。若い者は、怒らにゃいかん。もっと怒れ、もっと怒れ。

  • いかなる良策でも、用いなければ空想を語るに過ぎません。

  • たとえ、いかなる逆境、悲運にあおうとも、希望だけは失ってはならぬ。「朝の来ない夜はない」のだから。

  • 人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。

  • 上手なあいづちは、人の心の真実を汲み出す誘い水である。

  • 真に生命を愛する者こそ、真の勇者である。

  • 私は地道に、学歴もなく、独学でやってきた。座右の銘というものではないが、「我以外皆師なり」と思っている

  • 今日、民衆の中に何が一番欠けているか。自分を信じ、人を信じ、自分の仕事を信じ、自分の今日の生活を信じていくというような信念が非常に弱いと思う。

  • 人間とは、一日中に何百遍も菩薩となり悪魔となり、たえまなく変化している。

  • 人づきあいとは鏡のようなものである。

  • 無智はいつでも、有智よりも優越する。

  • 行き詰まりは、展開の一歩である。

  • およそ「自分ほど苦労した者はありません」などと自ら云える人の苦労と称するものなどは、十中の十までが、ほんとの苦労であったためしはない。

  • 自分といえる自分などが、どこにあろう。ないはずのものを、あなたは、つかもうとしておいでられる。

  • どの青年もおしなべて情熱との戦いを繰り返しながら成長して行くのに、君は不幸だ。早くから美しいものを見すぎ、美味しいものを食べすぎているということは、こんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れていくということは、青年として気の毒なことだ。

  • 今度も立派に乗り越えてみせるぞ。朝の来ない夜はないのだから。

  • この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが、帰りはない。この旅で様々な人と道中道連れになる。それらの人と楽しくスムーズにやっていくには人生のパスポートが大切だ。それはお辞儀とあいさつである。

  • ひとの生命を愛せない者に、自分の生命を愛せるわけはない。

  • いいじゃないか、5年道草をくったら、5年遅く生まれて来たと思うのだ。

  • あたたかい心で人のなかに住め。人のあたたかさは、自分の心があたたかでいなければ分かる筈もない。

  • 職業に貴賎はない。どんな職業に従事していてもその職業になり切っている人は美しい。

  • あれになろう、これになろうと焦るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間に媚びずに世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる。

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吉川英治について

吉川英治は大正・昭和期の国民的大衆小説家。娯楽性の高い歴史小説を得意とする。古い歴史の問題を現代的解釈をしてわかりやすく読者に提示し、読者の欲求に応えて読む者を惹きつけるところに特色がある。代表作に「鳴門秘帖」「宮本武蔵」、「新書太閤記」「新平家物語」「私本太平記」など。

1892年(明治25年)現在の神奈川県中区に生まれる。本名は英次。父は旧小田原藩士で神奈川県庁に勤務していた。吉川英治の生後すぐに一家は小田原に移り、牧場経営の傍らいくつかの事業を始めるが、いずれも失敗。さらに訴訟で敗訴したことなどもあり、一家は没落、吉川英治は小学校を中退し、働き始める。店の店員、官庁の給仕係、ドックの船具工、象眼職人の見習いなど職を転々としたのち、3つの小説が講談社の懸賞で入選。1922年(大正11年)東京毎夕新聞社に入社、同紙に「親鸞記」を連載して人気となる。翌1923年(大正12年)関東大震災により東京毎夕新聞社が解散、吉川英治は作家として独り立ちする。大衆文学誌キングで「剣難女難」を発表、少年倶楽部などでも小説を連載したのち、1926年(昭和元年)大阪毎日新聞に掲載した「鳴門秘帖」が大きな人気を獲得し、有名流行作家の仲間入りを果たす。「花ぐるま」、「万花地獄」、「松のや露八」、「檜山兄弟」、「親鸞」などを書いたのち、1935年(昭和10年)に「朝日新聞」で「宮本武蔵」の連載を開始。宮本武蔵は新聞連載小説として過去に例のないほどの反響を巻き起こし、吉川英治は代表的な大衆小説家としての地位を確立。その後も「新書太閤記」、「三国志」、「源頼朝」、「梅里先生行状記」などを発表。第二次大戦が始まると、海軍軍令部の嘱託となり海軍の戦史編纂にも携わった。終戦後はしばらく執筆活動を休止したのち、「高山右近」、「大岡越前」を発表。1950年(昭和25年)大作「新・平家物語」の連載を開始、新・平家物語は第一回菊池寛賞を受賞した。新・平家物語の7年にわたる連載が終わると「私本太平記」、「新・水滸伝」を連載。1962年(昭和37年)肺がんにより死去。享年70歳。