種田山頭火

俳人

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種田山頭火の名言

種田山頭火の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 「あきらめ」ということほど言い易くして行い難いことはない。

  • 無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる、この心構えさえ失わなければ、人は人として十分に生きてゆける。

  • おこるな しゃべるな むさぼるな ゆっくりあるけ しっかりあるけ

  • この道しかない 一人であるく

  • ほろほろほろびゆくわたくしの秋

  • どうしようもない私が歩いている

  • こんな良い月を一人で見て寝る

  • 捨てきれない荷物のおもさまへうしろ

  • また見ることもない山が遠ざかる

  • あるがまま雑草として芽をふく

  • 窓あけて窓いっぱいの春

  • まっすぐな道でさみしい

  • 人生は奇跡ではない、軌跡である。

  • この旅 果もない旅の つくつくぼうし

  • けふもいちにち誰も来なかつたほうたる

  • 大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た

  • 分け入つても分け入つても青い山

  • ああ酒、酒、酒、酒ゆえに生きても来たが、こんなものになった。酒は悪魔か仏か、毒か薬か。

  • 生まれた家はあとかたもないほうたる

  • おちついて死ねそうな草萌ゆる

  • ビルとビルとのすきまから見えて山の青さよ

  • 一杯やりたい夕焼けの空

種田山頭火の名言を見ている方へお薦めする名言

種田山頭火の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

種田山頭火について

種田山頭火は大正から昭和初期にかけて活躍した俳人。季語や五・七・五の定形にとらわれない、自由律俳句で人気を得た。また、人生への惑いから、僧侶が家々の前で施しを求めながら修行する「行乞流転」と呼ばれる生き方を実践に移し、43歳から行乞流転の旅に出たことでも知られている。

1882年(明治15年)現在の山口県防府市生まれ。本名、正一。種田家は地主で資産家であった。早稲田大学文学科に入学したが、神経衰弱によって中退し、実家の山口に戻ることになった。1911年(明治44年)実家のある防府の地方文芸誌「青年」で俳句や外国の文学の翻訳を発表する。1913年(大正2年)31歳で荻原井泉水が運営する自由律の俳句雑誌「層雲」に参加。このころ種田山頭火という俳名を使い始める。1916年一家が経営していた酒屋事業の失敗によって種田家は破産する結果となり、種田山頭火は友人を頼って熊本に移住した。この頃の種田山頭火は、酒に溺れ、かなり乱れた生活を送ったと言われている。1924年(大正13年)熊本の報恩寺で出家し、僧侶となる。1926年(大正15年)種田山頭火は行乞の旅を始め、日本各地を巡った。各地を放浪しながら俳句の創作を続け、多くの俳句を残した。行乞の旅は死の直前まで続いたという。1940年(昭和15年)脳溢血により死去。享年58歳。