種田山頭火
俳人
種田山頭火の名言
種田山頭火の過去の名言をまとめた名言集です。
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「あきらめ」ということほど言い易くして行い難いことはない。
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無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる、この心構えさえ失わなければ、人は人として十分に生きてゆける。
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おこるな しゃべるな むさぼるな ゆっくりあるけ しっかりあるけ
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この道しかない 一人であるく
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ほろほろほろびゆくわたくしの秋
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どうしようもない私が歩いている
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こんな良い月を一人で見て寝る
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捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
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また見ることもない山が遠ざかる
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あるがまま雑草として芽をふく
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窓あけて窓いっぱいの春
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まっすぐな道でさみしい
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人生は奇跡ではない、軌跡である。
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この旅 果もない旅の つくつくぼうし
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けふもいちにち誰も来なかつたほうたる
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大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た
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分け入つても分け入つても青い山
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ああ酒、酒、酒、酒ゆえに生きても来たが、こんなものになった。酒は悪魔か仏か、毒か薬か。
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生まれた家はあとかたもないほうたる
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おちついて死ねそうな草萌ゆる
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ビルとビルとのすきまから見えて山の青さよ
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一杯やりたい夕焼けの空
種田山頭火の名言を見ている方へお薦めする名言
種田山頭火の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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あるニューヨーカーが、アジア人の中で国籍をあてるのは難しいが、日本人だけはわかると話してくれました。理由は「日本人は目が死んでいるから」だそうです。妙に納まっている印象を受けるのですぐわかるのだそうです。
宮本亜門 演出家
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技術が進めば進むほど、実は人間とは何かという永遠の命題が突きつけられるんだね。
田原総一朗 ジャーナリスト
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地震や津波もあったし、最近は公開で人の首を刎ねたりもしてる。想像力というものは、もう現実には敵わないんじゃないかって思うようになったんだよね。いくら新しいものを想像しても「あるよ、それ」って言われちゃうような気がする。
北野武 お笑い芸人、映画監督
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人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれた事がない。
夏目漱石 小説家
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考えてみると世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う。悪くならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。
夏目漱石 小説家
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問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。
高倉健 俳優
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「みなさんのおかげでした」もう一度やりたいという気持ちはないんです。時代はやっぱり進んでいくし、それはしょうがないこと。終わった時に思いましたけど、やっぱ永遠はないんだなって。
石橋貴明 お笑いタレント
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一国の学問をになう力――学問に活力を賦与するものは、 むしろ学問を職業としない「俗人」の学問活動ではないだろうか。
柳田國男 民俗学者
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我が国はなに一つまともにできない。世界中で物笑いの種になっている。アメリカンドリームは死んだ。
ドナルド・トランプ 第45代アメリカ合衆国大統領、実業家
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天才とは、わずかに我々と一歩を隔てた者のことである。天才の悲劇は、こじんまりとした居心地の良い名声を与えられることである。
芥川龍之介 作家
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人生の目的は死なないこと。
蛭子能収 漫画家、タレント
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真理はつねに迫害に打ち勝つという格言は、実際、ほほえましい虚偽にすぎない。その虚偽は、人から人へと伝えられて、ついには決まり文句のようになっているが、あらゆる経験によって否定される。歴史は、真理が迫害によって踏みにじられた実例に満ちている。
ジョン・スチュアート・ミル 哲学者、思想家
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人身を以て之れを言へば、則ち気を神と為して精を鬼と為す。
朱子 儒学者
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法制度の最終形態は廃止されることでも、制限されることでもない。維持されて自由を拡大させることだ。法がなければ自由もないのである。
ジョン・ロック 哲学者
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成功には嫉妬が伴い、成功者の多くは老獪と目されやすい。地位と名誉には、それぞれ付随する慎みがあることを忘れてはならぬ。
渋沢栄一 実業家、官僚
種田山頭火について
種田山頭火は大正から昭和初期にかけて活躍した俳人。季語や五・七・五の定形にとらわれない、自由律俳句で人気を得た。また、人生への惑いから、僧侶が家々の前で施しを求めながら修行する「行乞流転」と呼ばれる生き方を実践に移し、43歳から行乞流転の旅に出たことでも知られている。
1882年(明治15年)現在の山口県防府市生まれ。本名、正一。種田家は地主で資産家であった。早稲田大学文学科に入学したが、神経衰弱によって中退し、実家の山口に戻ることになった。1911年(明治44年)実家のある防府の地方文芸誌「青年」で俳句や外国の文学の翻訳を発表する。1913年(大正2年)31歳で荻原井泉水が運営する自由律の俳句雑誌「層雲」に参加。このころ種田山頭火という俳名を使い始める。1916年一家が経営していた酒屋事業の失敗によって種田家は破産する結果となり、種田山頭火は友人を頼って熊本に移住した。この頃の種田山頭火は、酒に溺れ、かなり乱れた生活を送ったと言われている。1924年(大正13年)熊本の報恩寺で出家し、僧侶となる。1926年(大正15年)種田山頭火は行乞の旅を始め、日本各地を巡った。各地を放浪しながら俳句の創作を続け、多くの俳句を残した。行乞の旅は死の直前まで続いたという。1940年(昭和15年)脳溢血により死去。享年58歳。