倉本聰

脚本家

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倉本聰の名言

倉本聰の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 言葉だけでは真実は語れない。真実を語るのは、人の態度である。

  • そもそも我々の生活というものは本来、最初に需要があって、次に供給があったわけです。腹が減るから飯を作る。これだけの人間が腹を空かせているから、これだけの量の食糧が必要だ、と考えるのが僕の子供時代の価値観でした。当たり前に思えたその世界は、戦後の資本主義経済の中で変わっていきました。「これだけ供給できるから、需要と消費を増やせ」という社会が到来したのですね。

  • 創るということは遊ぶということ創るということは狂うということ創るということは生きるということ。

  • 根底で考えろ。演じることも書くことも、生きることも、すべて常識で考えるな。

  • 物を作る人間には、ふっと神様が降りてきてくれる瞬間があるような気がします。でも、その前に技術は磨いておかないといけません。ひらめいたときに、それを具体化する能力を、技術として持っていないといけない。

  • 金になることが仕事だと思っている人間が大多数でしょうけれど、仕事は金とは無縁のもので、本当に自分のやりたいことこそが仕事だと僕は思うんです。それが生きがいになってくる。本当の自分の仕事がしたくなる時期でもあるんです。それが活力になるんですよ。

  • 僕は「そうは言っても」とか「前例がない」という言葉が大嫌い。そんなことを言っていたら、世の中も自分自身もチェンジすることなんてできません。「前例がない」ことをやるからこそ「新しい挑戦」になる。にもかかわらず、常識からなかなか抜けられず、新しい道を開くことに対して臆病な人が多いのです。

  • 「創作」という言葉で言えば、創と作はまるで違う。「作る」というのは、知識と金でもって前例に基づいて作ること。それ対して知恵を使って前例にないものを生み出すことが「創る」だと思うんです。創のほうに目を向けると何でもできるわけです。

  • バブルが始まる少し前、文明の進歩によりどんどん変化していく日本の中で、誰もが高揚していました。しかし僕は、日本はこんなに便利になってしまっていいのだろうか?という不安感を抱いていたのです。そこで電化製品にどっぷりと浸っている子供達が、電気も水道もない生活の中に放り出されたら、何をどう感じ、どう動くのか?それを描いてみたいと思った。それが『北の国から』の原点でした。

  • 後がないと思えば、人は命がけで仕事ができるんですよ。

  • あといくつ、僕は作品を残すことができるのか。この歳になると、毎回、これが最後の作品だという気持ちで挑んでいます。

  • 現代社会は「生きること」の原点を支える要素や精神の立ち位置を隠し、目先の経済効率のみが重んじられているようです。そして、強大な力を持ってしまったお金の有無やその量で、社会活動が判断されるようになってしまったように感じます。

  • 脚本を書くことの最終目的は、金を得ることではなく、人様の心を洗うことである。洗ってきれいにしてさしあげることである。感動という名の洗剤で暮らしの汚濁を洗い流してあげることである。そしてそのことが出来たとき、僕の心は初めて充足する。

  • 朝令暮改は決して恥ではない。自分の意見を覆すことは、むしろ美徳であり、大人の態度である。

  • 国が良くないから、誰も国を愛さず、国のために戦おうとならない。愛国心というと、右翼的な響きがあるけれど、故郷を愛する気持ちが一番の愛国心。政府がやっていることは、変な方向に愛国心を持っていっている気がします。戦争が嫌だという人は、殺されるのが嫌なのか、殺すのが嫌なのか。殺す方が怖いんです。殺すことは残酷だし、トラウマを抱えてしまう。そういうことを知った上で反対することが大切です。

  • 今の社会はこれだけ供給できるから、需要と消費を増やせと、拡大してきた。それをどこまで縮小できるかという視点が必要でしょう。上の方からの発想でなく、もっと下から物事を見て、視野や議論の場を広げなければいけない。原発で出るゴミの捨て場が決まらない中、幸せだけを享受している。民主主義は権利と義務の両輪で成り立つのに、権利だけで義務を果たしていない

  • 未来は暗いですよ。若い人たちを見ていると、知識はあるけど、知恵がない。ものを考えなさすぎる。偏差値教育、知識至上主義から来ている。偏差値がいいと、いい大学に入って、会社で出世もできる。だから、知識だけを詰め込んでいる。自分で考える知恵が足りないんです。

  • 最近は物事を論じる際、その原点から考えるという基本的な姿勢があまりにも軽視されているように感じます。

  • 40年ほど前、東京から北海道に活動の拠点を移したころ、作品が全く書けなくなったことが4年も続きました。その時のことです。ある日、テレビから流れてきた版画家の棟方志功さんの言葉に耳を奪われました。「自分は自分の作品に責任を持てない。作品を作っているのは、自分ではないのだから」。その棟方さんの話を聞いて、「私も作らされているのだろうか」と自問しました。そこで気付いたのが、アーティストの使命とは神なり霊なりを降りてこさせることだと。その境地に達してからは、1時間のドラマを1日で書き上げてしまうこともありました。まさに何かに取り憑かれたようでした。「自分の力だけで書いているのではない」という脚本家としての原点に返ったのが、この経験でした。

  • 僕は常々「海抜ゼロメートル」と言っています。海抜ゼロメートルから富士山を見ると、周囲を含めて多様な姿を捉えることができます。それがいざ登山を始め5合目、7合目と上がっていくと、頂上は近づいても、視界は狭くなり、上に登る選択肢も限られていきます。海抜ゼロメートルとは登り続けながら、登山を始めた原点に立ち返ることなのです。

  • 人には品位というものがあり、礼儀という根本的社会のルールがある。それを外したとき、人はけだものの地位へと墜ちてゆく。そしてそうした無意識の堕落は次の世代へと受け継がれてゆく。

  • ドラマ「北の国から」では、放映後も2、3年おきに続編を制作し、初回放映から数えて21年間続きました。続編を書き始めるたびに「一体『北の国から』とは何だったのか」を考えました。「北」とは何か、「の」「国」「から」とは何か。ひとつひとつ見つめ直しました。

  • 「豊か」という言葉を辞書で引くと「リッチにして幸せなこと」とある。幸せというのは今に満ち足りていることです。日本は、リッチではあるけど幸せがなくなっちゃった。

  • 自然界に右肩上がりのものはないんです。それなのに世の中の人たちは、もっと良くしろと年がら年中言っている。

  • 日本人は便利であることが豊かさであると捉えています。しかし「豊か」を辞書で引くと「リッチであること」のあとに「且つ幸せであること」と続く。ならば、便利なことが私達に幸せをもたらしたかというと、それは違うでしょう。

  • 46億年の地球の歴史が一月元旦から始まったとして、人類が発生したのが十二月二十三日になる。

  • 現実の世界も、暗闇の底には希望がある、そうであってほしいですね。

  • 時代と共に流動し、変動する「常識」のレベル、いわゆるその時点の既成事実から議論が始まり、その背後にある因果関係や根本的な話などが一切飛ばして語られることが多過ぎるように感じています。

  • 電化製品にどっぷりと浸っている子供達が、電気も水道もない生活の中に放り出されたら、何をどう感じ、どう動くのか?それを描いてみたいと思った。それが「北の国から」の原点でした。

  • 報道でも政治でもなく、エンターテインメントにしか作り出せない「感動」があると思っている。僕の活動が止まるのは、まだまだ先でしょうね。

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倉本聰について

倉本聰は「前略おふくろ様」や「北の国から」の脚本を担当したことで知られる脚本家。映画作品として「駅STATION」などもある。1977年から北海道の富良野に移住し、そこで後進の育成のために劇団「富良野塾」を開設した。「北の国から」は1981年の24回の連続ドラマ放送後もスペシャルドラマが2002年まで8回にわたって放送され、毎回20%を超える高視聴率を記録。多くのファンを持つ国民的ドラマとなった。

1934年(昭和9年)東京都に生まれる。本名・山谷馨。東京大学に入学し、文学部美術科に進む。在学中から劇作の活動を行い、劇団「仲間」の文芸部に所属していた。大学卒業後はニッポン放送に入社。ニッポン放送で勤務しながら、会社に内緒で「倉本聰」のペンネームで脚本家としても活動。テレビの連続ドラマの脚本などを手掛けていたという。

1963年(昭和38年)倉本聰はニッポン放送を退職し、脚本家として独立した。「月曜日のユカ」、「冬の華」、「駅」といった映画や「6羽のかもめ」、「前略おふくろ様」などのテレビドラマの脚本を手掛けた。1974年にはNHK大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当することになっていたが、NHKと演出を巡って意見が合わず途中降板。その後のゴタゴタに嫌気がさして北海道札幌市に転居。さらに1977年には富良野市に移住。北海道での生活で得た知見から書き上げた連続ドラマ「北の国から」が1981年に放送される。「北の国から」は当初は低視聴率に苦しんだが、尻上がりに視聴率を上げ、最終24話では視聴率21%を記録。作品への評価の高さからスペシャルドラマとして放送されることとなり、1983年に「北の国から'83冬」を放送すると26.4%の高視聴率を叩き出す。スペシャルドラマは全8回に渡って放送され、いずれも視聴率20%超え、2002年の「北の国から 2002遺言 前編」は 38.4%を記録するなど国民的人気ドラマとなっていった。

1984年(昭和59年)倉本聰は私財を投じて富良野市で劇団「富良野塾」を開設。2010年まで26年にわたって演劇の指導や公演を行って後進の育成に努めた。