倉本聰

脚本家

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倉本聰の名言

倉本聰の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 人は他人から与えられることはうれしい。だが、与えることはもっとうれしい。いや、人に与えること、人の役に立っているという意識こそが、そもそも人間の生き甲斐なのではあるまいか。考えてみると自分の生き甲斐も、結局そこに尽きる気がする。

  • 何か人より優れたものを持ちたいと思ったら、やっぱりどこかで無理しないといけないと思います。かなりの無理をしたから、他の人よりも少し前に進めたんだと思うんです。

  • もしも君たちがなくしものをして、それがどうしても見つからなかったら、富良野に探しに戻っていらっしゃい。残雪の溶けた熟地のぬかるみに、君らの探しものは転がっているはず。

  • 「富士山に登った」と言う人は多いけれど、たいていは5合目辺りまで車などで行き、そこからスタートして登ったと言っているわけです。でも、本当に標高3776メートルの富士山を登り切ったと言うなら、僕は駿河湾から歩き出すのが本筋だと思う。つまり、いつの間にか5合目スタートが常識になってしまっているわけです。物事には「そもそも」という根本があります。根本が進化し、社会基盤になり、常識になっていく。5合目が常識になってしまうと、人はこの「そもそも」の部分、根本を考えなくなる。それが僕は怖い。

  • 僕らの仕事を創作という。創も作もつくるという意味だが、本当の意味は違うと思う。僕の定義では「知識と金で前例に倣ってつくるのが作」「金も知識もないが、前例にないものを智恵で零から生み出すのが創」。零から考え直し、もう一度、創から始めようではないか。

  • 戦前の教育は、「知育」「体育」「徳育」という3つの柱で成り立っていた。だがあの敗戦から「徳育」が欠け落ちた。嘘をついてはならぬもの、などという倫理の序の序が子供の心に届かず、戦後60数年を経て今やその子供が企業のトップの座につく時代になった。そして徳育の欠落はあの敗戦時の教育現場の混乱の時代から改まることなく今に続いている。これでは日本人の心の衰退が進行するのも当然のことだろう。

  • 幸せとは、現在に満ち足りること、満ち足りてそれ以上望まぬ心。

  • 東京オリンピックの開催が決まった時、「TOKYO」という文字が溢れ返るのを見て、僕は自分の住んでいた「東京」はもはやローマ字で表現したほうがしっくりくる気がしたものです。町は生き物なのだとは思いますが、一方でその変化に否応なく翻弄され、時代に流されていく人たちがいる。

  • 人は水や空気が無ければ生きていけません。そんな当たり前の事を忘れて、人間は自然を破壊している。

  • 作家として、いまの自分がすべきことは「ふるさと」をテーマに作品を作ることなのだと。それは自然に降りてきた発想でした。

  • 何だかわからないけれど体中の内臓が連動して、自分の意図に反して鳥肌が立つとか、ワクワクするというのが感動なんだから。

  • 日本という国は、「ブレーキとバックギアのついていないスーパーカー」だと思っています。

  • 人間が生きていくために必要なのは「酸素」、「水」、そして「食べ物」です。これをしっかり自力で確保することは自身の責任として果たすべきことではないでしょうか?

  • 残りの人生で何ができるかを、常に考えています。

  • 僕たちが真の意味で世界と向き合うには「心にストンと落ちる」、五感で納得できる方法をとらないとダメなんじゃないでしょうか。心に響かない限り、結局のところ本当のコトは見えてこないと僕は思うんです。

  • 僕たちは今、お金のもたらす影響力とその意味を根本から考えるタイミングに来ているように感じています。

  • 物事の全体を俯瞰する視界を持ち、目の前の状況を自分にしっかり引き寄せて、「私ごと」として考える姿勢から始めてはどうだろうかと思います。

  • 日本人は便利であることが豊かさであると捉えています。しかし「豊か」を辞書で引くと「リッチであること」のあとに「且つ幸せであること」と続く。ならば、便利なことが私達に幸せをもたらしたかというと、それは違うでしょう。そういう思いを、作品を通じて伝えたかったのです。

  • 僕の場合は、最初に自分がやりたいことを箱にしまって鍵をかけて封印しちゃおうと決めたんです。自分がまずシナリオ技術者として、どんな注文にも応じられる能力を身につけようと。そういう職人になったときに初めて鍵を開けて「自分の初心」を取り出そうというふうに思ってたんですね。

  • 幸せとは、どのような状況にあろうと、いまが満ち足りていると感じられること。

  • 問うべきは、「自分は何のために、何を目的にして生きていくのか」をはっきりさせることです。僕は、人を感動させたかった。びっくりさせたかった。それが、僕の人生の目的なんです。

  • 総理大臣をはじめ皆さんが戦争の実体を知りませんよね。まず自分は戦場に行かないというのが大前提。自分がグサリと刺されたり、爆撃を受けたりするイメージがない。国のためと言うと今の人たちは拒否反応を示しますけど、家族のためとなると違ってくる。僕ら戦争中の人間は、家族のためというのが一番大きかった。米ソ冷戦時代でも、ミグ戦闘機が毎日のように飛んできて、北海道にソ連が攻めてくるかもしれないという時期があったんです。そのとき、自分はどうするか、かなり具体的に考えました。まず山の中へ逃げるだろうけれど、かみさんや親しい人たちが捕まってしまったらどうするか。そのとき、僕は戦うだろう。家族や仲間を守るためには、相手を刺したり、ぶん殴って殺したりするだろうと思いました。暴力や残虐性は自分の中にあるし、人間の本性として家族が暴漢に襲われて拉致されかけたら戦うでしょう。しかし、今の政治家や官僚はそのイメージが持てているのだろうか。疑問ですね。

  • 僕にとっては、むしろ過疎になってくれた方がうれしいという立場です。都会好きの人は、どんどん都会に行けばいいと思います。ただし、いずれ都会には住めなくなることも想定しておくべきです。石油資源は永遠ではありませんから、今のように石油文明に支えられた都会のままでは、暮らし続けることはできなくなります。

  • 僕はね、前年比という言葉が分からないんです。みんな前年より伸びないとダメと言うけど、前年と同じでいいじゃない。今の日本の「前年比感覚」は、自然と矛盾している気がするんですよ。前年比一辺倒から離れること。そこに本当の豊かさがあるはず。

  • 世の中、太平の日々もあれば、異常気象に打ちのめされる日だって来るだろう。問題はそういう天変地異に、どう向き合うか、どう対するかという人それぞれの品格にあると思う。

  • 法の網はくぐれる。だが神の目はくぐれない。神の目、言いかえれば良心というものを失った民族には破滅しかあるまい。

  • 話し合いの場にスマホを持ち込んでいる人を見ると、嫌になる。僕が話している時にいじるのも論外で、怒鳴ったことがある。「スマホで調べてました」というけれど、後でやればいいこと。スマホに伴う問題が多くなる中、使うルール、スマホ法規みたいなものがないといけないと思う。

  • 便利さを求め続けたことの代償は計り知れないほど大きいのだということに、日本人は気づかなくてはいけないのです。インターネットやメールは便利だけれど、人々から真のコミュニケーション能力を奪い、家族のつながりを希薄な物へと変えてしまった。

  • 消費を礼賛する一方で、生産者が疲弊していくのが、いまの時代です。ある年に天候異変が起こって不作になれば、別の場所から同じモノを持ってきて都市は常に潤い続けるけれど、これまでの生産地は衰退していくという図式。これは電力を都市部に供給し続けた福島と、消費し続ける都市の関係とも相似形でしょう。

  • 便利さを求め続けたことの代償は計り知れないほど大きい。

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倉本聰について

倉本聰は「前略おふくろ様」や「北の国から」の脚本を担当したことで知られる脚本家。映画作品として「駅STATION」などもある。1977年から北海道の富良野に移住し、そこで後進の育成のために劇団「富良野塾」を開設した。「北の国から」は1981年の24回の連続ドラマ放送後もスペシャルドラマが2002年まで8回にわたって放送され、毎回20%を超える高視聴率を記録。多くのファンを持つ国民的ドラマとなった。

1934年(昭和9年)東京都に生まれる。本名・山谷馨。東京大学に入学し、文学部美術科に進む。在学中から劇作の活動を行い、劇団「仲間」の文芸部に所属していた。大学卒業後はニッポン放送に入社。ニッポン放送で勤務しながら、会社に内緒で「倉本聰」のペンネームで脚本家としても活動。テレビの連続ドラマの脚本などを手掛けていたという。

1963年(昭和38年)倉本聰はニッポン放送を退職し、脚本家として独立した。「月曜日のユカ」、「冬の華」、「駅」といった映画や「6羽のかもめ」、「前略おふくろ様」などのテレビドラマの脚本を手掛けた。1974年にはNHK大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当することになっていたが、NHKと演出を巡って意見が合わず途中降板。その後のゴタゴタに嫌気がさして北海道札幌市に転居。さらに1977年には富良野市に移住。北海道での生活で得た知見から書き上げた連続ドラマ「北の国から」が1981年に放送される。「北の国から」は当初は低視聴率に苦しんだが、尻上がりに視聴率を上げ、最終24話では視聴率21%を記録。作品への評価の高さからスペシャルドラマとして放送されることとなり、1983年に「北の国から'83冬」を放送すると26.4%の高視聴率を叩き出す。スペシャルドラマは全8回に渡って放送され、いずれも視聴率20%超え、2002年の「北の国から 2002遺言 前編」は 38.4%を記録するなど国民的人気ドラマとなっていった。

1984年(昭和59年)倉本聰は私財を投じて富良野市で劇団「富良野塾」を開設。2010年まで26年にわたって演劇の指導や公演を行って後進の育成に努めた。