島崎藤村
小説家、詩人
島崎藤村の名言
島崎藤村の過去の名言をまとめた名言集です。
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古いものを壊そうとするのは無駄な骨折りだ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば古いものは壊れている。
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親はもとより大切である。しかし自分の道を見出すということはなお大切だ。人は各自自分の道を見出すべきだ。
出典: 島崎藤村「春」
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人間のためと言いましても、自分のすぐ隣にいる人から始めるよりほかに仕方がない。
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皆一緒に学校を出た時分──あの頃は、何か面白そうなことが先の方でわれわれを待っているような気がした。こうしているのが、これが君、人生かね。
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わたし達の急務は、ただただ眼前の太陽を追ひかけることではなくて、自分等の内に高く太陽をかかげることだ。
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今日まで自分を導いてきた力は 明日も自分を導いてくれるだろう。
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明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間に通り過ぎる。過去こそ真だ。
出典: 島崎藤村「夜明け前」
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人力の限りあるを知るのが自信だ
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梭の音を聞くべき人は今いづこ 心を糸により初めて 涙ににじむ木綿縞 やぶれしまどに身をなげて 暮れ行く空をながむれば ねぐらに急ぐ村鴉 連つれにはなれて飛ぶ一羽 あとを慕ふてかあかあと
出典: 島崎藤村「若菜集」
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人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。
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結婚するのに精神の勇気を要するならば
別れるのにとってはなおさら精神の勇気を要する。 -
強烈な威圧の力も結局小さなたましい一つをどうすることも出来ない。
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同じ一つの時代にもひき潮の時期があり、さし潮の時期がある。四季が循環するように、冷熱は一代の人の心を従来してやまない。
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寂しい道を歩き続けて来たものでなければ、どうしてそれほど飢え渇いたように生の歓びを迎えるということがあろう。
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昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ。この命なにをあくせく 明日をのみ思いわずらう。
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いざさらば これをこの世のわかれぞと のがれいでては住みなれし 御寺の蔵裏の白壁の 眼にもふたたび見ゆるかな いざさらば 住めば仏のやどりさへ 火炎の宅となるものを なぐさめもなき心より 流れて落つる涙かな いざさらば 心の油濁るとも ともしびたかくかきおこし なさけは熱くもゆる火の こひしき塵にわれは焼けなむ
出典: 島崎藤村「若菜集」
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私たちの不安は、何一つ自発的に働きかけるようなものを持たないで、ただただ受け身の位置にあることを暗示させられるところからくる。
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好い笑いは、暖かい冬の陽ざしのようなものだ。誰でも親しめる。
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旅じゃ有りませんか、誰だって人間の生涯は。
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いつまでも君、恋の影なぞに欺されて居られるものか。唯、誠が残ればいい。
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人間も憤怒を抑えないうちは、本当に自然を友とすることはできない。
出典: 島崎藤村「飯倉だより」
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この世にあるもので、一つとして過ぎ去らないものはない。せめてその中で、誠を残したい
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独立した田舎は、その反対に単独の発達を遂げるには、それぞれの歴史、農産業の発達、貨物の集散、その他政治上、経済上の事情などに依ってそれぞれ人物も必要であるし、経営も必要であるし、それからなお、独立した地方の精神と云うものがなくてはならぬ。
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すべて、徹底を願うことは、それにともなう苦痛も多い。しかしそれによって与えられる快感は何ものにも見出すことが出来ない。
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わきめもふらで急ぎ行く 君の行方はいずこぞや 琴花酒のあるものを とどまりたまえ旅人よ
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生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち新しい生涯なり。
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病のある身ほど、人の情の真と偽とを烈しく感ずるものは無い。
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人の世に三智がある。学んで得る智、人と交わって得る智、みずからの体験によって得る智がそれである。
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行きたくないと思ったって、生きるだけは生きなきゃなりません。
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まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思いけり
出典: 島崎藤村「初恋 島崎藤村詩集」
島崎藤村の名言を見ている方へお薦めする名言
島崎藤村の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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私たち全員を進ませているのは、与えること、つまり人々の生活に愛をもたらすことから得られる喜びなのです。
マザー・テレサ 慈善活動家、修道女
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我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って立ち去るであろう。
ソクラテス 哲学者
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最近は天職って言葉を使ってるけど、ゴルフの神様が「お前はこれしかないんだから、これをできるようにするのも、できないようにするのもお前だ。だから、やるならある程度覚悟を決めなさい」って言っているというか、そういうことだと思うんだよね。
青木功 プロゴルファー
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いまだって、毎日、試行錯誤の連続です。無駄なことをしないで済むなら、そうしたいと思います。でも、そんなことは土台無理なのです。仕事や人生にこれが正しいという答えはありません。
平野岳史 フルキャスト創業者
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世の中には、働いていること自体がみんなの負担になっている人が多いと思うんですよ。会社からただお金をもらって、社会的には意味のないことをしている人がたくさんいる。
堀江貴文 オン・ザ・エッジ創業者、投資家、著作家
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最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。 それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだろう。
菊池寛 小説家
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時代は止まらない。そして環境に適応できた種だけが生き残る。地球上のルールは、植物も動物も人間も「適者生存」だ。だから僕らは、環境の変化に常に気を配り、しなやかに順応していかなければならない。
西野亮廣 お笑い芸人
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いま高齢世代は比較的元気です。それは政治を動かすのも、経済的利益を享受するのも高齢世代だからです。一方で、若年世代の元気が失われているように感じます。それは日本の将来への道筋が示されていないからでしょう。
新浪剛史 元ローソン社長、サントリーホールディングス社長
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売れてくるにつれて、だんだん天狗になっていく奴と同じにされては困ります。天狗歴が違うのです。オレは新人のときからまあ、最低、いまぐらいのいちにくることは予想できていたし、ペコペコするのが大嫌いなので、そうしてきたのです。
松本人志 お笑い芸人
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日本になぜ、スティーブ・ジョブズのような天才が生まれないか。彼ら天才と崇められる人物は時代の変革の時期に生まれる。過去、日本にはジョブズをはるかに上回る経営者が何人もいたと思う。「次のジョブズ」を期待する気持ちはわかるが、「次の変革期」について考えずに、彼自身を研究しても意味がない。
出井伸之 元ソニーCEO、クオンタムリープ創業者
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ある生死を決める法律規則が定まっているならば、人は、自分の運命をその法律、規則に順応させて救うことができる。しかし、偶然だけには、どうにも、立ち向かうことはできぬ。
遠藤周作 小説家
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それで、芸人はその、なんすか、あの、悲惨な方がいい、破滅型がいいとかなんとかいって、みんな泣きながら死んでいくわけだからね。結局最後は・・。自由になれなくて、結局。なんかお酒でいったり、女にいったりとか。そんなのは結局しばられていくわけだから。結局、自由じゃないですよね?
松田優作 俳優
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社会に大きな影響を与えるための最善の方法は、常にもっとも重要な問題を解決しようと努めることです。
マーク・ザッカーバーグ Facebook創業者
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困難を抱える他人に興味を示さず、他人に損害さえ与える者。そういった個人の中から人間社会の失敗は生まれるのです。
アルフレッド・アドラー 心理学者、精神科医
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あなたが今どんな状況にあり、過去がどうであったか。それがわかれば、あなたの考えていることはおおよそわかるのだ。
エリック・シュミット 元GoogleCEO
島崎藤村について
19世紀末から20世紀前半にかけて活躍した小説家、詩人。大学卒業後、北村透谷、星野天知らと『文学界』を創刊。劇詩や随筆を執筆する。その3年後には初の詩集となる「若菜集」を出版。以後詩人として活躍し詩集「一葉舟」、「夏草」、「落梅集」を書き上げる。その後小説に進出し1905年に出版した「破戒」が高い評価を得る。以降「春」、「家」、「新生」、「夜明け前」などの小説を発表。
1872年(明治5年)島崎藤村は現在の岐阜県中津川市に庄屋の四男として生まれる。1881年(明治14年)10歳のときに就学のために上京。1891年(明治24年)明治学院を卒業し明治女学校の教師となる。この頃、巌本善治主宰の文学誌「女学雑誌」に寄稿を始め、作家としての活動も開始する。
明治女学校で教え子だった生徒と恋に落ちるが、その生徒には許婚(いいなずけ)がいたため苦しみ、1893年(明治26年)明治女学校を辞職した。同年北村透谷、平田禿木、樋口一葉、上田敏、田山花袋らとともに島崎藤村は月刊文芸雑誌「文学界」を創刊。1896年(明治29年)仙台の東北学院で1年間ほど勤める。この頃から書き溜めた詩を翌年、初めての詩集「若菜集」として出版。若菜集は好評を得て、現在ではロマン主義文学の代表的な詩集とも言われる。島崎藤村の名声は高まっていった。これ以降「一葉舟」、「夏草」「落梅集」と立て続けに3つの詩集を出版した。長野県の小諸義塾で教師となる。この頃、詩による表現の限界を感じ始め、小説の執筆を志すようになる。
1906年、小学校教師がその出生に苦しみ、告白するまでを描く小説「破壊」を発表し、島崎藤村は小説家として地位を確立。1907年(明治40年)「並木」、1908年(明治41年)「春」を発表し、1910年には読売新聞で「家」の連載を開始。
3年間ほどフランスで過ごす。1917年(大正6年) 慶應義塾大学文学科講師に就任。フランス紀行「海へ」、自らの姪との愛人関係を告白した「新生」を発表。1929年父正樹をモデルとした歴史小説「夜明け前」を中央公論で連載。1943年(昭和18年)死去。享年71歳。