森鴎外

小説家、評論家、医者

  • Twitter
  • Facebook
  • Hatebu
  • Line
  • Copy

森鴎外の名言

森鴎外の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 富人が金を得れば 悪業が増長する。貧人が金を得れば堕落のはしごを降って行く。

  • 日の光を借りて照る大いなる月たんよりは、自ら光を放つ小さき燈火たれ。

    出典:  知恵袋

    解説:  太陽の力を借りて光っている月よりも、小さくても自ら光を放つ灯火であれ。

  • 女はどんな正直な女でも、その時心に持っていることを隠してほかの事を言うのを、男ほど苦にはしない。

    出典:  森鴎外「雁」

  • 打ち明け過ぐるも悪しく、物隠すように見ゆるも悪しきなり。

  • 人に言うべき事は最後まできちんと言うがよい。全部は言いたくないことだったら、むしろ初めから黙っていよ。

  • 善とは、家畜の群れのような人間と去就を同じうする道にすぎない。それを破ろうとするのは悪だ。

  • 少壮時代に心の田地に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。

  • 人の光を借りて我光を増さんと欲するなかれ。

    出典:  森鴎外「智慧袋」

  • みんなが誉めるのは、おべっかである。六割が誉めて四割がけなすのが人材である。

  • 一体、日本人は生きるということを知っているのだろうか?

  • 一匹の人間が持っているだけの精力を一事に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない。

    出典:  森鴎外「雁」

  • 己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人もそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなければならない。それに安じて恬然としていなくてはならない。

  • 苦難が大きすぎて、自分ひとりの力で支え切れない場合には、家族から身を隠して一人で泣きなさい。そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、頭をあげて胸を張り、家族を激励するために家に戻りなさい。

  • 学校というものを離れて職業にありつくと、その職業を成し遂げてしまおうとする。その先には生活があるとおもうのである。そして、その先には生活はないのである。

  • 初対面の言語動作は人の運命を決すること多し。

  • 現在は過去と未来との間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。

  • 恋愛もなければ、係恋もない。いったいこんな閲歴が生活であろうか。どうもそうは思われない。真の充実した生活では確かにない。

  • 人を騙したなんかしない代わりには、人に騙されもしないつもりなの

    出典:  森鴎外「雁」

  • 人間は遅疑しながら何かするときは、その行為の動機を有り合わせの物に帰するものと見える。

  • 世間の人は虎を、性欲の虎を放し飼いにして、どうかするとその背に乗って滅亡の谷に落ちる。

  • 武士はいざという時には飽食はしない。しかしまた空腹で大切な事に取り掛かることもない。

  • 私は学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。

  • 一々のことばを、はかりの皿に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、われわれ青年の特権だね。

  • おれなんぞの顔は閲歴がだんだんに痕を刻み付けた顔で、親に産み付けてもらった顔とは違う。

  • 酒を傾けて酵母をすするに至るべからず。

  • 心理学が思量から意思へ、意思から衝動へ、衝動からそれ以下への心的作用へと、次第に深く穿っていく。そして、それが倫理を変化させる。

  • 足ることを知ることこそが幸福である。

  • 小学校の門をくぐってからというものは、一生懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。

  • 罵言は世間のために風俗を矯る利あるべく、一身のために信用を長ずる益あるべし。

  • 僕は生まれながらの傍観者である。どんな感興のわき上がった時も、僕はそのうずまきに身を投じて、心から楽しんだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。

森鴎外の名言を見ている方へお薦めする名言

森鴎外の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

森鴎外について

森鴎外は明治から大正にかけて活躍した小説家、評論家、軍医。日本軍の軍医となって35年にわたって勤務し、陸軍軍医総監にまで上り詰めた。一方で精力的に執筆活動も行い、小説、外国小説の翻訳、評論などで活躍した。

1862年(文久2年)島根県に生まれる。森家は代々、津和野藩の典医を務めており、父も医者であった。1872円(明治5年)10歳で一家で上京。翌年には第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に入学、1881年(明治14年)に森鴎外は第一大学区医学校本科を卒業し東京陸軍病院に勤務。

1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に評論「小説論」を発表し、さらに読売新聞でカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」を翻訳して発表。文学活動を始める。翌1890年(明治23)年森鴎外は小説に進出し、短編小説「舞姫」を発表する。以降、日清、日露戦争に出征するなど軍医としての仕事を続ける一方で文筆活動も継続する。

軍医としては1907年(明治40年)軍医の最高位である陸軍省医務局長まで昇進している。代表作に「舞姫」、「ヰタ・セクスアリス」、「山椒大夫」、「青年」、「雁」、「渋江抽斎」、「安倍一族」など。1922年(大正11年)死去。享年60歳。