森鴎外
小説家、評論家、医者
森鴎外の名言
森鴎外の過去の名言をまとめた名言集です。
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開いている扉があったら足を容れよう。扉が閉じられていたら通り過ぎよう。
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友の変じて敵となるものあり。
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日の光を籍たれ。
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実に敵という敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない。
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死なないわけにはいかない、死ぬるまで弾力を保存したい
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富人を降って行く。
森鴎外の名言を見ている方へお薦めする名言
森鴎外の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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ホントに羽を伸ばして生きていけるなって思えるのは、親が死んだときだと思う。
マツコ・デラックス タレント
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はじめから堂々とオープンにしていたら、たとえ批判されても大きな問題には発展しにくい。
田原総一朗 ジャーナリスト
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我慢は弱者の強みであり、短気は強者の弱みである。
イマヌエル・カント 哲学者
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失敗の言い訳をすれば、その失敗がどんどん目立っていくだけです。
シェイクスピア 劇作家、詩人
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日常で一番重要なことを伝えるには低いトーンで小さな声でしゃべる方が伝わる。そうすると相手の注意力が増してくる。大きな声を出せば面白いと思うのは勘違いだ。
タモリ お笑いタレント、司会者
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国家の指導者たる者は、必要に迫られてやむを得ず行ったことであっても、自ら進んで選択した結果であるかのように思わせることが重要である。
マキャヴェリ 政治思想家
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練習中の喧嘩なんて、驚くことでもないから。僕だって削れれたらふざけんなって言い合いをしますよ。でもみんなピッチから出たら、切り替えるのも早いから引きずる選手はいない。
長谷部誠 プロサッカー選手
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自分から闇雲にパンチを出していた時代より、周囲から期待される方がしんどかった。テレビに出たら視聴率を出さなければいけないし、個展を開いたらデパートに集客と売上をもたらさなければならない。結果を出さなくてはいけないというプレッシャーに負けそうになっていたんです。だけど、その中で人との絆に気づき、助け合って進めばいいと思えてきた。
武田双雲 書道家
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自分も犯したことのある過ちなら、人が犯しても好感をいだくものだ。
ゲーテ 詩人、劇作家、小説家
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信用したり期待しなければ裏切られることもないのです。それを頭に入れておくと、意外と対人関係は楽になります。
美輪明宏 歌手、俳優、タレント
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私は34歳で現役を引退するまで、「足が速い」という価値基準にしばられてきましたが、引退後に出会ったさまざまな業種の人たちは、当然ですが別の価値観を持ち、それぞれが輝いていました。思っていたよりも世界は広い。業種や国籍、世代の違う人たちと積極的に交流することで、私はそのことを実感しました。ビジネスマンも、もっと「外」に目を向けてはどうでしょうか。
為末大 陸上選手、世界陸上400mハードル銅メダリスト
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戦争が終わって、人は自由になった。だけど、自由になった個人は、自由になった自分にものすごい不安を抱いている。なんでも自由にやっていいんだよと言われた途端に、自分が何をしたらいいかわからなくなってしまった。だから、誰でもいいからリーダーを探してくっついていこうとしたり、なんとしてでも友達の輪の中に入れてもらおうとする。
北野武 お笑い芸人、映画監督
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何もいらない。今の私に必要なのは思い出だけだ。それは持っている。
星新一 小説家
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他人が自分の真価を知らないことを気にするより、自分が人の才能や力量を知らないことをこそ憂うべきだ。
孔子 思想家、儒教の祖
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余計なことはしないことがいいのかもね人生。
マツコ・デラックス タレント
森鴎外について
森鴎外は明治から大正にかけて活躍した小説家、評論家、軍医。日本軍の軍医となって35年にわたって勤務し、陸軍軍医総監にまで上り詰めた。一方で精力的に執筆活動も行い、小説、外国小説の翻訳、評論などで活躍した。
1862年(文久2年)島根県に生まれる。森家は代々、津和野藩の典医を務めており、父も医者であった。1872円(明治5年)10歳で一家で上京。翌年には第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に入学、1881年(明治14年)に森鴎外は第一大学区医学校本科を卒業し東京陸軍病院に勤務。
1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に評論「小説論」を発表し、さらに読売新聞でカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」を翻訳して発表。文学活動を始める。翌1890年(明治23)年森鴎外は小説に進出し、短編小説「舞姫」を発表する。以降、日清、日露戦争に出征するなど軍医としての仕事を続ける一方で文筆活動も継続する。
軍医としては1907年(明治40年)軍医の最高位である陸軍省医務局長まで昇進している。代表作に「舞姫」、「ヰタ・セクスアリス」、「山椒大夫」、「青年」、「雁」、「渋江抽斎」、「安倍一族」など。1922年(大正11年)死去。享年60歳。