石川啄木

歌人、詩人

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石川啄木の名言

石川啄木の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 明日の考察。これ実に我々が今日において為すべき唯一である、そうして又総てである。

    出典:  石川啄木「時代閉塞の現状・食うべき詩」

  • たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず

    出典:  一握の砂

    解説:  ふざけて母をおぶったところ、その軽さに涙が出て3歩も歩けなかった。

  • はたらけど はたらけどなほ わが生活 楽にならざり じっと手を見る

    出典:  一握の砂

    解説:  どれだけ必死に働こうとも、私の暮らしは楽にならない。じっと手を見る。

  • 時代に没頭していては時代を批評する事が出来ない。

  • 人といふ人の心に一人づつ囚人がゐてうめくかなしさ

    出典:  石川啄木「一握の砂・悲しき玩具」

  • いかなる問題にあっても、具体的ということは最後の、しかして最良の結論だ。

    出典:  東京毎日新聞の評論「文学と政治」

    解説:  どんな問題でも結論に具体性がなければ、現実に対応できない。理想や構想はより具体的に計画することによって、目標や方法が明確化されていく。会社や様々な組織など、複数の人とともに作業をするときはさらに重要になる。

  • 明日は 何を為すべきか これは今日のうちに考えておかなければならぬ唯一のものである。

  • 働けど、働けどなほ 我が暮し楽にならざり じっと手を見る

    出典:  石川啄木「一握の砂・悲しき玩具 石川啄木歌集」

  • われわれが書斎の窓からのぞいたり、ほお杖ついて考えたりするよりも、人生というものは、もっと広い、深い、もっと複雑で、そしてもっと融通のきくものである。

  • 我々は今、最も厳密に、大胆に、自由に今日を研究して、其処に我々自身にとっての明日の必要を発見しなければならぬ。

  • 友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

  • 戦争は決して地震や津波のような天変地異ではない 何の音沙汰もなく突然やってくるものではない。

  • 願はくば一生、物を言ったり考へたりする暇もなく、朝から晩まで働きづめに働いて、そしてバタリと死にたいものだ。

  • よごれたる 手を洗いし時の かすかなる満足が 今日の満足なりき

  • 詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。

  • ひとりの人と友人になるときは、その人といつか必ず絶交する事あるを忘るるな。

  • ああ、一切がみな火の種だ。自分も火だ。

    出典:  石川啄木「雲は天才である」

  • 人の値は、大いなる戦いに雄々しく勝ち、もしくは雄々しく負くる時に定まる。

  • 必要はもっとも確実な理想である

  • 恋は人生のすべてではない。その一部分だ。しかもごく僅かな一部分だ。

  • こころよき 疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる後の この疲れ

  • 結婚は実に人間の航路に於ける唯一の連合艦隊なり

  • 忙しい生活の間に心に浮かんでは消えてゆく刹那刹那の感じを
    愛惜する人が人間にある限り、
    歌というものは滅びない。

  • 自分の机の上に、一つ住めばまた一つという風に
    後から後から為事の集まってくる時ほど、
    私の心臓の愉快に鼓動している時はない。

  • 山は動かざれども、海は常に動けり。

  • 結婚について神の定められた法律はただ一カ条ある。いわく、愛!

    出典:  石川啄木「盛岡啄木手帳(渋民日記)」

  • しっとりと 酒のかおりに浸りたる 脳の重みを感じて帰る

  • こころよく 我に働く仕事あれ それをし遂げて死なむと思ふ

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石川啄木について

石川啄木は明治の詩人。文芸誌「明星」の浪漫主義文学を愛読して詩人を目指す。そして若くして明星誌上で詩や短歌を発表し、処女詩集「あこがれ」で高い評価を得た。しかし、父の失職など家庭の事情で貧困生活に陥り、北海道の各地を流転するなど苦労した末に上京し、「一握の砂」を完成させた。

1886年(明治19年)岩手県岩手郡日戸村に生まれる。父は曹洞宗の僧だった。1898年(明治31年)に盛岡尋常中学校入学。中学校の先輩として金田一京助が在籍しており、文学に興味を持ち始め、「明星」などを愛読。この頃地元の岩手日報に何篇かの評論を投稿し、掲載されるなど文学的才能を示す。1902年(明治35年)石川啄木は当時5年制だった尋常中学校を卒業半年前に退学し、文学で成功するために上京する。上京当初は苦労したが、与謝野鉄幹の新詩社に入り、明星誌上に詩や評論を発表すると評判となる。1905年(明治38年)処女詩集「あこがれ」を発表。しかし、父が住職を罷免される事態が起こり、石川啄木は一家を支えるために帰郷し教員として働く。ところが一家を支えるには給与が十分でなく、一家を盛岡に残して北海道に渡り、各地を転々とする。北海道に渡った後も相変わらず生活は苦しかったという。

そのため文学者として東京で成功することを決意し、再度上京。小説を発表するが認められるには至らなかった。そこで石川啄木は新聞社の校正係の職を得て、働きながら短歌や詩を作り、歌集「一握の砂」を完成させる。「一握の砂」は自らの生活苦に照らし合わせて社会の矛盾を突き、評判となった。その後は「一握の砂」に続く短歌や詩の制作に取り組んでいたが、結核のため1912年(明治45年)死去。享年27歳。