正岡子規

俳人、歌人

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正岡子規の名言

正岡子規の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 巧を求むるなかれ、拙を蔽うなかれ、他人に恥ずるなかれ。

  • 人の希望は、初め漠然として大きく、後、ようやく小さく確実になるならびなり。

  • 悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということは、いかなる場合にも平気で生きていることであった。

  • 自個の著作を売りて原稿料を取るは少しも悪き事に非ず。 されどその著作の目的が原稿料を取るといふ事より他に何もなかりしとすれば、著者の心の賤しき事いふまでもなし。

  • 病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

  • この百日という長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。

    出典:  正岡子規「病牀六尺」

  • 病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きて居ても何の面白みもない。

  • 世間恐るべきは猛獣毒蛇にあらず 壮士暴客にあらず ただ勉強家と沈黙家と謙遜家とのみ。

  • 禅の悟りとは、いつでも、どこでも死ぬる覚悟ができることだと思っていたが、よく考えてみると、それは大変な誤りで、いかなる場合でも、平気で生きることであることがわかった。

  • 見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで、隣の汽車が動くように覚ゆる。

  • 少年老イヤスク学成リガタシ、せっかちにゆかねば男子はどうなるものぞ。

  • 為すべきと思ひしことも為し得ぬこと多く、為すべからずと信ぜしこともいつかはこれを為すに至ることしばしばなり。

  • 死は恐ろしくはないのであるが苦が恐ろしいのだ。

  • 世の中の 重荷おろして 昼寝かな

  • 棺の前にて通夜すること無用に候。棺の前にて空涙は無用に候。談笑平生のごとくあるべく候。

    出典:  正岡子規「仰臥漫録」

  • 明治維新の改革を成就したものは、20歳前後の田舎の青年であって、幕府の老人ではなかった。何事によらず、革命または改良ということは、必ず新たに世の中に出てきた青年の力であって、従来世の中に立っておったところの老人が、説をひるがえしたために革命または改良が行われたという事は、ほとんどその例がない。

  • 人間よりは花鳥風月が好きなり。

  • たとえ、漢語で詩をつくるとも、西洋語で詩をつくるとも、はたまたサンスクリット語でつくるとも、日本人が作った以上は、日本の文学であることに間違いない。

  • 黙ってこらえているのが一番苦しい。 盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少し苦痛が減ずる。

  • 文章は簡単ならざるべからず、最も簡単なる文章が最も面白きものなり。

  • 美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。

  • 良句もできるが、駄句もできる。しかし、できた駄句は捨てずに書きとめておかねばならない。自分のつくった句を粗末にして書きとめておかぬひとは、とてものこと、一流の作者にはなれない。

  • 死ぬまで、ひっこむわけにはゆかない。

  • 実際の戦争は危険多くして損失多し。 ベースボールほど愉快にてみちたる戦争は他になかるべし。

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正岡子規について

正岡子規は病に冒されながら文学活動を続け、俳句、短歌の分野で大きな功績を残した明治の文学者。

1867年(慶応3年)現在の愛媛県松山市の武士の家庭に生まれる。本名、正岡常規。幼くして父を亡くし、叔父の加藤恒忠の元を頼った。1883年(明治13年)受験勉強のため上京し、共立学校(現在の開成高校)に入学。この頃から正岡子規は俳句を作り始める。翌年、東大予備門(現在の東京大学教養学部)に入学する。1889年(明治22年)喀血(呼吸器系統からの出血)をし、医師から当時不治の病だった肺結核と診断される。この時、血を吐くまで鳴き続けると言われるホトトギスの別称から子規と名乗るようになる。

1890年(明治23年)東京帝国大学哲学科に入学し、翌年国文科に転入。1982年(明治25年)東京帝大を退学し、正岡子規は新聞「日本」の記者となる。1895年(明治28年)記者として日清戦争に従軍すると、帰路の軍船の中で再度喀血し、重篤な状態になる。正岡子規は結核菌が脊椎を冒す脊椎カリエスと診断され、以降歩くことすら困難となる。そんな中でも子規は創作活動を続け、1902年に亡くなるまで病床の中で文学に打ち込んだ。享年34歳。