小林多喜二
小説家
小林多喜二の名言
小林多喜二の過去の名言をまとめた名言集です。
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世の中は、幸福ばかりで満ちているものではない。不幸であるから幸福がある。そこを忘れないでくれ。
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困難な情勢になってはじめて誰が敵か、誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。
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闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光のありがたさが分かるんだ。
出典: 小林多喜二が恋人へ送った手紙
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ささやかな普通の生活こそが「光」
出典: 小林多喜二が恋人へ送った手紙
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資本家は――金利貸し、銀行、華族、大金持ちは、嘘のような金を貸しておけば、荒地は肥えた黒猫のような豊穣な土地になって、間違いなく、自分のものになってきた。
出典: 小林多喜二「蟹工船」
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「人間の命をなんだって思ってやがるんだ!」 「人間の命?」 「そうよ。」 「ところが、浅川はお前たちをどだい人間だなんて思っていないよ。」
出典: 蟹工船
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おい地獄さ行ぐんだで!
出典: 蟹工船
小林多喜二の名言を見ている方へお薦めする名言
小林多喜二の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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人間は常に迷っている。迷っている間は、常に何かを求めているのである。
ゲーテ 詩人、劇作家、小説家
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いつも善良であろうとする者は必ず、多数派の善良でない者によって破滅させられる。
マキャヴェリ 政治思想家
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苦しみは人を強くするが、喜びは大体において人を弱くするにすぎない。勇敢に堪え忍ぶ苦難と、苦難との間の休息の時間こそが、本当の喜びなのである。
カール・ヒルティ 哲学者、法学者
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みんなスカスカの人生なのに幸せそうなフリしてるだけなんだよ。
リリー・フランキー イラストレーター、俳優、作家
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黄金時代が現代であったためしはない。いつだって黄金時代は、その時代には気がつかず、後になってはじめて、「あの時は良かったな」と分かるもの、そういう意味なのだろう。もしくは、まだ見ぬ未来にだけ存在している、ということか。
伊坂幸太郎 小説家
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人間がもともと持っている、苦労を避けて安楽を好むという心をそのまま成長させていけば、善に従う道につながるであろう。やたらに悪いことをしようとして苦労する人は、不徳というよりもむしろ無知と評すべきである。
福沢諭吉 思想家、教育家
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差別されるのがどういうことなのか、どれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。
村上春樹 小説家
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はたらけど はたらけどなほ わが生活 楽にならざり じっと手を見る
石川啄木 歌人、詩人
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無知な者はたいてい多弁である。知識のあるものはあまり話さない。
ジャン=ジャック・ルソー 哲学者
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最愚者の為す所が最賢者の頭脳を支配することもある。世に無価値な人間があるべき理はない。
大隈重信 内閣総理大臣、早稲田大学創設者
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夢は一人ひとり違うものです。興味や才能もみんな違うのです。それが個性というものです。どうして「こうでなくてはいけない」と決めつけるのでしょうか。
黒柳徹子 司会者、女優、作家
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ナポレオンでもアレキサンダーでも、勝って満足したものは一人もいない。
夏目漱石 小説家
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老いぼれるのは結局、自分で諦めているんですよ。年を取ると、できない理由ばかりを一生懸命考え始めるんです。
三浦雄一郎 登山家、プロスキーヤー
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どのような不幸に際しても、何よりも強い慰めとは、自分より、もっと不幸な他の人たちを見ることによって得られる。
ショーペンハウアー 哲学者
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民衆を支配するためには大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。
芥川龍之介 作家
小林多喜二について
小林多喜二は庶民や労働者の直面する厳しい現実を描き、日本のプロレタリア文学を代表する小説家となった。特に「蟹工船」で知られる。その内容が不敬罪に問われ特別高等警察に逮捕されて拷問で死亡した。
1903年(明治36年)秋田県に農家の次男として生まれる。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業後、北海道拓殖銀行に入社。この頃から労働農民党の選挙活動を手伝い始める。1928年(昭和3年)、政府が共産主義者を弾圧した「三一五事件」が起こる。小林多喜二はこれに反発し、三一五事件での拷問の様子を描いた「一九二八年三月十五日」を発表。世間から注目を浴びるとともに、特高警察からは目をつけられてしまう。
翌1929年、小林多喜二は北洋漁業に従事する労働者たちの過酷な現実を描き、財閥と大日本帝国軍の癒着を暴いた「蟹工船」を発表。蟹工船は文壇で高く評価され、小林多喜二の名声は一気に高まることになった。しかし一方で天皇の軍である帝国軍を批判する内容が問題視され、不敬罪に問われてしまう。小林多喜二は拓銀を解雇され、日本共産党に入党。警察の目を逃れながら隠れて活動するようになる。1933年(昭和8年)スパイによって呼び出された小林多喜二は待ち構えていた特高警察に逮捕され、同日夜死亡が確認された。警察による発表によると死因は心臓麻痺であったが、遺体は全身が内出血するなど拷問の跡が残っていたという。享年29歳。