吉野作造
政治学者、思想家
吉野作造の名言
吉野作造の過去の名言をまとめた名言集です。
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人は機会さえ与えらるれば、何人でも無限にその能力を発揮するものである
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いかなる思想にせよ、暴力をもって圧迫することは絶対に排斥せねばならぬ。
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デモクラシーなる言葉は、少なくとも2つの異なった意味に用いられておるように思う。一つは「国家の主権は法理上人民にあり」という意味に、又もう一つは「国家の主権の活動の基本的な目標は政治上人民にあるべし」という意味に用いられる。
吉野作造の名言を見ている方へお薦めする名言
吉野作造の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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インフレーションを継続させることで、政府はこっそりと気づかれずに国民の富を接収できる。
ジョン・メイナード・ケインズ 経済学者
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真のリーダーでないのに、そうなろうとする選手は、味方がミスした後に叱責する。真のリーダーは選手がミスすることは想定済みだ。
ヨハン・クライフ サッカー選手、サッカー監督
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誰かが1つのことを立派に成し遂げると、他の人達はこれに刺激を受け、さらに立派なことを成し遂げようとするものである。
ヘンリー・フォード フォード・モーター創業者
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多く考える人は党員には向かない。というのは党派などを突き抜けて考えてしまうからである。
ニーチェ 哲学者
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私は指示を尊重するが、自分自身も同様に尊重する。そして私は馬鹿げたルールには従わない、それが私を侮辱するものであればなおさらに。
サルトル 哲学者
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味方の協和が得られて、初めて地形の有利さも、自然の条件も役に立つのである。それ故に、国家の務めを論ずる場合には、まず味方の協和の問題を取り上げねばならない。
吉田松蔭 教育者、思想家
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新しいことをやれば、ある程度の矛盾は避けられません。ですからあまり秩序的に考えすぎず、矛盾や混乱はむしろ喜ぶべきなのです。
出井伸之 元ソニーCEO、クオンタムリープ創業者
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長所短所を知り尽くし、どこに可能性があるかを指摘できるのは当事者だ。素材は全てそこにある。
カルロス・ゴーン 元日産自動車CEO
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その人を叱るよりも先に、その人の良さを引き出すためにはどうすればいいかをもっと考えてあげればいいんじゃないの?
テリー伊藤 テレビプロデューサー、タレント
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組織内で自然と起こることは3つだけだ。それは摩擦、混乱、能率の低下である。他の何かを起こすにはリーダーシップが必要となる。
ピーター・ドラッカー 経営学者
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国家が生き残っても、その伝統が消えてしまうのでは全く価値がない。
ジョン・F・ケネディ アメリカ合衆国大統領
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他人に迷惑をかけないなんてくだらないことを誰が言ったのか知らないんですけれども、人間はいるだけでお互いに迷惑なんです。お互いに迷惑をかけあって生きているんだというふうに認識すべきだってぼくは思う。
宮崎駿 アニメーション作家、映画監督
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効率と非効率は陽と陰のようなものだと私は考える。どちらがいいか悪いかではない。陰陽のバランスが崩れれば世の中が乱れる。効率を追求するあまり、バランスが崩れているのが今の社会だ。
鍵山秀三郎 イエローハット創業者、日本を美しくする会創始者
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時期尚早という人間は100年たっても時期尚早という。前例がないという人間は200年たっても前例がないという。
川淵三郎 Jリーグ初代チェアマン、B.LEAGUE初代チェアマン
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相手を黙らせたからといって、相手の意見を変えられたわけではない。
バーナード・ショー 劇作家
吉野作造について
吉野作造は大正デモクラシーを主導した政治学者、思想家。東京帝国大学教授となり、「中央公論」誌上などで民本主義を唱え、普通選挙の実施、政党内閣制などを主張し、一方で軍閥を激しく非難した。
1878年(明治11)年現在の宮城県・大崎市生まれ。東京帝国大学に入学し、政治学を学ぶ。1907年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。大学院に進む。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学助教授となる。その後吉野作造は1910年から3年間欧米留学。1914年(大正3年)同大教授に昇進。この年、「中央公論」の編集主幹・瀧田樗陰の依頼で、同誌上に「学術上より見たる日本問題」、「民衆的示威運動を論ず」の二つの評論を発表。吉野作造は「中央公論」を通じて日本の政治のあり方に対する見解を表明した。1916年中央公論に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表。大正デモクラシーの代表的な論客と言われるようになる。同年、民本主義を主張する学者、思想家を結集して言論団体「黎明会」を結成。1924年(大正13年)吉野作造は東京帝大教授の職を辞し、朝日新聞に入社し、編集顧問兼論説委員を務める。しかし、同社主催の講演および同紙掲載の論説が政府の怒りを買い、同年朝日新聞を退社して東京帝大法学部非常勤講師となる。東京帝大に戻った吉野作造は歴史研究団体「明治文化研究会」を組織。「明治文化研究会」石井研堂・尾佐竹猛・小野秀雄・宮武外骨・藤井甚太郎ら民間の研究者を中心に結成され、おもに明治憲法体制を検証することを目標とした。1927年女子経済専門学校(現・東京文化学園)教授兼理事に就任。1933年死去。享年55歳。