中村修二
青色発光ダイオードの発明者、カリフォルニア大学教授
中村修二の名言
中村修二の過去の名言をまとめた名言集です。
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自分がやりたいこと、自分が目ざすものがあれば、たとえそれが将来的にあまり光が当たりそうではなくとも、思い切って進むべきだ。
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大企業に入るためエリート大学への受験勉強に明け暮れるだけでは、日本国内でしか生きられない人間になって当たり前だ。
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大企業に入るためエリート大学への受験勉強に明け暮れるだけでは、国内でしか生きられない人間になって当たり前だ。
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日本は誰もが大手企業に入りたがって、優秀な人もそうでない人も「永遠のサラリーマン」をやっている。理由のひとつは、日本が「一芸に秀でた人」を認めないからでしょう。唯一の例外がプロスポーツで、イチローや松坂大輔は「すごい」と評価されるけど、優秀なエンジニアは認めてくれない。
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何と言われようと、自分がやれると思ったのならやれると信じて進むことだ。あくまでも「目標で自分を動かせ」なのだ。
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材料ができればいいんですよ。皆さん、難しい化学式がどうのこうのって勉強するでしょうけど、そんなん言語の一つなんですから。難しい化学式を使ってつくる人もおれば、私みたいに何にもなしでつくっちゃう人もいる、それでも結果は一緒なんですよ。
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徹底して考え抜いた末に生まれる「独創性」と、最後までやりぬく「粘り」を持つこと。この両輪なくして、大きな夢を実現させることはできない。
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米国の課題は、ものづくりが苦手なことです。個性を伸ばす教育で、みんな違う人間をつくる。日本はみんな同じような人間を大量につくる教育ですから、グループで品質のいいものを作るのは得意です。米国人は、グループでの仕事が得意ではありません。
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超難関のウルトラクイズみたいな大学受験システムが、つまらない人間をつくりだす元凶。
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日本では、一番大事なことを教えていないと思います。向こうではまず、どうやって自立して、金儲けするかを考える。金がないと生活できないでしょう。でも日本では、教育現場に金の話しを持ってくるのは絶対にダメ。つまり一番大事なことを教えていない。
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むしろ、効率が悪く、時間がかかった方が、成功しやすいともいえる。失敗してその原因を一つ一つ追求していけば、時間がかかるのは当たり前だ。
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周囲から見放されて無視されたときから、研究に集中できるようになる。
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組織の論理は捨てなければならない。組織は独創的な考え方をつぶすだけだからだ。
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私、最近よく言うんですけど、5年おきに会社辞めてほしいですよね。そうやってどんどん自分を磨いて、自分を売り込んで、どんどん収入を増やすとかやってほしいんですよね。滅私奉公というのを止めてほしいですね、もう。何のために仕事をしてるんだといったら、会社のためじゃなくて、自分のため。自分の家族のため、そう思って仕事を、研究をやってほしいですね。
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何が確実なことかといえば、自分がこの目で見、この手で触れて確かめること以外に何があるというのだ。それを一つ一つ積み重ねていけば、エベレスト登山もいつかは可能になる。
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生活の安定を思えば、日亜化学工業に残っている方がいいですよね。食いっぱぐれることはない。楽だし。特許収入があるから会社が傾く心配は当面ない。僕も適当に昇進するだろうし。でもそれじゃ、何も面白くない。やることがないのに会社に残っていたら「アホ」になるだけですよ。
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紆余曲折のない人生などあり得ない。安定した生活など歴史上どこにもない。
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人のマネではない自分の流儀を徹底して貫くことが、何かを完成させるには是非とも必要なことなのです。
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受験競争をリタイアすれば、やりたいことに取り組む時間が十分に取れます。極論になりますが、好きな道で成功したかったら、今の日本の学校からは早く落ちこぼれた方がいいくらいです。
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リスクの高いものを選ぶ精神がないと、大きなブレイクスルーやノーベル賞級の発明は出来ない。
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能力のある人がきちんと評価される米国の素晴らしさを実感し、日本との落差を再認識した。
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不思議なもので、いつか決定的なアイディアが浮かぶと信じていれば、本当に浮かんでくるものなのだ。
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新しいものにチャレンジするとゼロからやり直しになるので、必死になって勉強します。すると、自分の能力が伸びる。そういう意味で、同じ会社にずっといたらダメだと思うんです。ベンチャーを5年置きに立ち上げていたら、そのたびに環境が大きく変わります。むしろ、自分の能力を磨くために、5年置きぐらいで会社を替えるべきです。
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これを言うと誤解されるんですけど、やはり仕事の対価は報酬だと思います。野球選手もいい成績を挙げれば報酬が上がるでしょう。サラリーマンだって、いい仕事をして成績を上げれば、相応の報酬を受けるべきです。日本の技術者は優秀なんですから。
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まずは自分でベンチャーを起こせないか考える。日本で私が教わってきたのは、クイズ番組の問題のようなものに解答する試験勉強ばかり。それでいきなりベンチャーをやれと言ったって、できるわけないですよね。
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怒りがすべてのモチベーションだった。怒りがなければ何も成し遂げられなかった。
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いい発明をしたら、誰でもビル・ゲイツみたいになるチャンスがある。日本ではそんなチャンスは与えられていない。永遠のサラリーマンなんです。一生懸命働いても途中で肩たたきにあって、年収が半分になってしまうのが日本の科学者や技術者。
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たとえばロケットが好きな子どもがロケットで遊んでいたら、日本のお母さんはきっと怒りますね。勉強しなさいって言って。でもそれがアメリカなら、好きなロケットにとことん打ち込めるシステムになっているんですね。それが将来の優れた宇宙技術者を育てることにもつながるんです。
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発明に対する報酬の少なさにスレイブナカムラとまで言われた。まるで洗脳社会だ。愕然とする。
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むりやり化学記号を覚えさせられたら、誰でも化学が嫌いになりますよ。サイエンスは覚えることではないのです。
中村修二の名言を見ている方へお薦めする名言
中村修二の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。
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いかに知識を身につけたとしても全知全能になることなどはできないが、勉強しない人々とは天地ほどの開きができる。
プラトン 哲学者
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本気で成功したいと思うのならば、不可能だ、無謀だ、無理だと、みんなが言うことをやればいいんだよ。その中で自分が好きなことを見つけること。そして、そこに向けて圧倒的な努力をする。それしかない。
見城徹 幻冬舎創業者
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2009年に怪我をしたことで学んだことがたくさんあります。ひとつは気持ちが強くなったこと。常に上向きの姿勢でいることができていると思います。
錦織圭 プロテニスプレーヤー
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スポーツ選手の場合、メダルを獲るまではモチベーションについてあまり悩む人はいません。ところが、2個目のメダルを目指すとなると話が違ってきます。「メダルを獲れば安泰」というほど、人生はシンプルではないことが実感されるからです。1年もすれば、みんなに忘れられてしまう。「何のためにやっているんだろう」と悩むのです。
為末大 陸上選手、世界陸上400mハードル銅メダリスト
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天才とは、わずかに我々と一歩を隔てた者のことである。天才の悲劇は、こじんまりとした居心地の良い名声を与えられることである。
芥川龍之介 作家
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選手によく使ったのが、「とは」という言葉だ。「野球とは?」「勝負とは?」「バッティングとは?」。ものごとに関して、しっかりと問題意識を抱き、自らの頭で考えているか。それを問う意味で、常に「~とは何か?」を問うてきたんだ。プロ野球選手が「野球とは?」と聞かれた時に答えられなかったら、それは「考えてない」ということだ。
野村克也 プロ野球選手、監督
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多くの人は皆、成功を夢見、望んでいますが、私は「成功は、99パーセントの失敗に与えられた1パーセントだ」と思っています。開拓者精神によって自ら新しい世界に挑み、失敗、反省、勇気という3つの道具を繰り返して使うことによってのみ、最後の成功という結果に達することができると私は信じています。
本田宗一郎 本田技研工業創業者
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成功と失敗の唯一の相違点は、行動を起こすことができたか、行動を起こせなかったかだ。
グラハム・ベル 発明家、物理学者
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結局のところ、私に才能はあったのだろうか。
ベートーベン 作曲家、ピアニスト
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いまだに何かをわかったわけでもなく、ただ迷いつつ手探りでやり続けております。
タモリ お笑いタレント、司会者
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十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 画家、彫刻家
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イミテーションを繰り返しても、彼らを超えることはできない。日本はコンプレックスから開放されて、自分たちのストロングポイントを自覚するべきだ。
イビチャ・オシム サッカー監督
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成功には嫉妬が伴い、成功者の多くは老獪と目されやすい。地位と名誉には、それぞれ付随する慎みがあることを忘れてはならぬ。
渋沢栄一 実業家、官僚
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失敗から何かを学び、成功に結びつけるのが真のマーケティングである。
フィリップ・コトラー 経営学者
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顧客を勝ち取り繋ぎ留めておく鍵は、競合他社よりも的確に顧客のニーズと購買プロセスを理解し、より多くの価値を提供することである。
フィリップ・コトラー 経営学者
中村修二について
中村修二は青色発光ダイオードを発明したことで知られる人物。青色発光ダイオードの発明により発光ダイオード(LED)は赤、青、緑の三原色が揃い、白色のLED電球の製造が可能になった。2014年ノーベル物理学賞受賞。発明当時日亜化学工業の従業員だった中村修二は、発明に対しての報酬を巡って会社と法廷闘争を展開。最終的には8億円で和解が成立した。なお、この問題をきっかけに特許法が複数回にわたって企業側有利に改正され、就業規則などで特許の対価の算出方法を定めれば、企業側はそれ以上の対価の支払い義務を負わないようになった。
1954年5月22日現在の愛媛県伊方町に生まれる。その後愛媛県大洲市に転居し、大洲北中学校から県立大洲高校に進む。大学は徳島大学に入学し、工学部で電子工学を学び、修士号まで取得。大学卒業後は地元での就職を希望し、1979年に日亜化学工業に入社。日亜化学工業では開発課に所属し、開発装置の改良などを担当。1988年から1年間、フロリダ大学へと留学。有機金属気相成長法(MOCVD)について学んだ。帰国後はMOCVDの生成装置の改良に取り組み、青色発光材料である窒化ガリウムを生成するツーフローMOCVDの発明に成功。この成功がのちに青色発光ダイオードの製品化へと繋がることとなった。
日亜化学工業は1993年に青色発光ダイオードを製品化。しかしながら、中村修二への発明の対価はわずか2万円だったという。青色LEDの製品化で中村修二の名前は一気に広まることとなり、メディアの取材を受けたり各地で講演活動を行うようになった。1994年、徳島大学に博士論文を提出し、博士号を取得。1999年に日亜化学工業を退社し、2000年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校の材料物性工学科教授に就任。その後、青色発光ダイオードの発明対価をめぐり日本とアメリカで法廷闘争を展開。アメリカでの訴訟は棄却されたが、日本では地裁で200億円の支払い命令を勝ち取り、その後高裁にて8億円の支払いで和解した。2005年ごろにアメリカ国籍を取得。2014年に赤崎勇・天野浩と共にノーベル物理学賞を受賞。同年文化功労者に選ばれ、文化勲章も受章した。