堺屋太一

経済評論家、小説家

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堺屋太一の名言

堺屋太一の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 過去の大事業も、それが成し遂げられる前は「ばかばかしい、不可能だ」と思われていたようなこと。ばかばかしさを楽しむことを忘れなければ、社会も人も変わっていく。

  • 官僚や潰れる心配のない大企業の社員の間では、「大切なのは報・連・相」といわれた。何ひとつ価値を生まない組織内の情報交換が重要な仕事となったのだ。そんな組織で新たな価値をつくり出せるわけがない。

  • 我々の若いころは、感情論で話をすることは恥ずかしいことでした。たとえば会議で同僚から「君の意見は感情的だ」と言われると「違います、データがあります」なんて言い訳をしたものです。ところが80年代以降は、「あなたの言っていることは単なる数字。住民感情はそんなもんじゃない」と言われたら一発で負けなんです。主観や感情が科学的数字に勝つようになってしまった。

  • 戦後の日本では官僚が個人の人生設計まで全てを決めてきました。それに従っていれば、それなりの中流になれた。いわゆるジャパニーズドリームですね。逆に、官僚が敷いたルートから外れると、とことん損をした。役人の言う通りに生きるのが良い国民で、それに反するのは悪い国民だと。だからニートとか、パラサイトとか、もう散々悪く言われるんですよ。

  • 戦後の日本は自由主義の旗を掲げながら、実際には官僚主導業界協調体制をつくった。それは、実現社会の動きとしては全体主義統制経済の方に近い。日本が「最も成功した社会主義国」と言われたのも、故無きことではない。

  • 実務の世界ではよく「現実的」という言葉を使うが現実的とは「目的を達成し易い」ことであって「着手し易い」ではない。

  • 若い世代には、自分が何が好きなのかを一人ひとり考え、それを実行してほしいですね。世間から笑われたり、そんなの無駄やと言われてもいい。高度成長期は一人ひとりが経済成長し、その蓄積が高度成長になったように。今度は一人ひとりが「好きなこと」をやる。その蓄積が日本全体で大きな創造になる。

  • 産業革命以来ずっと近代思想の根底にあった「物財が多い方が人間は幸せだ」という考え方。モノをたくさん作るのは正義だ。そのためには規格大量生産が一番いい。その結果、日本は自動車や電気製品に代表される規格大量生産が世界で一番上手な国になった。ところが人類の文明思想は80年代に大転換し「本当に物財が多いことが人間の幸せだろうか。満足が大きいことが幸せではないか」という方向に変わってきた。

  • 受験の影響というのは、本当に強くなっていると感じます。もちろん、すべての東大生がそうとは言いませんが、「私は東大入試に合格しました。だから同世代で最高に優秀だ」というように、受験による基準がすべてになっています。こういう人たちでは、何も新しいものは生み出せません。

  • 今や日本は世界一安全です。けれど、全然楽しくない。安全だけでいいなら監獄に入ればいい。それでもみんな入りたがらないのは、幸福を追求できる選択性がないからです。これからの日本は、「楽しい日本」「多様な社会」にしなきゃいけない。

  • 「人を呼ぶ」には、まず志を立てないといけない。誰が何の目的で何をするか、志を明確にする。その次にコンセプト、何が中核か。どういう仕掛けで動かすか。優秀なブレーンが正確なコンセプトを作って、それに従って基本計画を立てる。

  • 日本式経営を支えたのは三本の柱である。第一の柱は「閉鎖的雇用関係」、年功序列、終身雇用、企業内組合である。第二の柱は「先行投資型財務体制」である。企業は配当や賃金を低めに抑え、内部留保を厚くして先行投資を行った。第三の柱は「集団的意思決定方式」だ。意思決定に時間はかかるが不満はない。社長が決断を下すころには、全社員が内容を知っている。だから「決定は遅いが、実行は速い」という日本的特徴が生まれた。

  • 戦後の日本は、いわば「ええとこ取りの体制」だった。西側の技術を導入し、自由貿易で豊かな資源と広い市場を得た。その一方で、官僚主導で企業を保護し、過当競争を避けて効率的な資源配分を官僚に期待した。通常、このようなやり方では官僚的硬直と自己満足に陥るものだが、輸出競争と技術導入がそれを防いでくれた。

  • 何でも自分で決められる、ということは、自分で決断することに慣れていない人にはつらい。籠の中に飼われていた鳥は、籠から急に出されたらどこへ行っていいかわからない。

  • 企業も、労働者側の多様性に応じた仕事を提供していかなければならない時代が来たのではないでしょうか。教育についても戦後教育は全部、供給者サイドの発想で考えられたものです。これが大きな問題ですね。

  • 日本の歴史を振り返っても、大きな変革は、それまでにあった価値観をすべて否定することから起こっています。

  • 経営者は、この20年間とってきた昔ながらの考え方を捨てなければならない。大量生産、合理化、安売りではなく、いかに多様で新しい価値を生み出していくかに心血を注いでほしい。そこにしか、日本が浮上する道はない。

  • 私は「フリーター奨励論」をとりたい。フリーターは適職探しをしている人ととらえ、その戦力化を考えたほうがいい。正規社員になるべく早く移行せよという発想はもう古いのではないか。

    出典:  Business labor trend2004年11月号

  • 私が戦争中の経験から今に思うのは、なぜ一億玉砕が言い出されたのか。これが官僚システムの恐ろしいところだ、ということです。官僚というのは、消去法で可能性のある道だけを探る。要するに、この戦争は勝てない。しかし、日本は降参しない。そうすると玉砕よりほかはない。だから悪人でもアホでもない軍人や官僚が、真剣に一億玉砕だと言っていた。小学校の先生まで同じことを言い触れていた。

  • 平成という時代は、「夢ない、欲ない、やる気ない」の「三ない社会」と言えます。バブル期であった昭和末期と比べ、明らかに若者を中心に国民から「意欲」のようなものが失われました。今は「低出産、低起業、低成長」を招き「新しいモノ」が生まれなくなったのです。

  • 組織に嫌われるのがイヤなようでは大したことは出来ません。

  • 仕事というのは自らを高める修行である。

  • 人間にとっても組織にとっても理想を知ることこそが理想を実現する第一歩である。

  • 目先のことにとらわれてはいけない。好きなことをやらないと必ず後悔する。

  • 就職における最も危険な間違いは、好きかどうかでなく、有利かどうかで選んでしまうことです。

  • 幸せというのは環境と希望の一致です。

  • 好きなことを見つけることこそ人生で一番の仕事である。

  • 時間が忘れられる仕事を探しなさい。

  • 官僚も普通の人。聖人でも悪人でもない。職場での居心地と将来の出世が気にかかる。それを決めるのは同じ府省に勤める仲間の評判だ。仲間の評判を高めるには、それぞれの府省の予算を増やし、組織を伸ばし、規制権限を広げることである。景気をよくし、経済を活発にする規制緩和に官僚たちが抵抗するのは当然だろう。

  • 経済格差があることがいいことか、悪いことか、これは難しい問題です。格差=悪と決めつけることは、ある一定の生き方、働き方を強要することにもなりかねません。誰もが正社員になって終身雇用で働いていた時代は、確かに格差は小さかった。でも、正社員と同じ給料でなくても、その分時間が欲しいという人もいるでしょう。働き方、生き方を自由に選べる社会では、結果として経済格差は残る。これは仕方がないことです。

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堺屋太一について

堺屋太一(サカイヤ・タイチ)は、大阪市出身で通産省の官僚から小説家に転身。歴史小説や経済小説を執筆した。その後社会、経済を中心とした評論にも手を広げ、著作を多数発表。日本の官僚主導による調整型の業界協調体制が情報化社会に対応できていないとして、地方分権、小さな政府、規制緩和などを主張した。また、政治の世界にも関わり、民間人として小渕内閣、森内閣で経済企画庁長官を務めた。戦後のベビーブーム世代を「団塊の世代」と名付けたことでも有名。

1935年(昭和10年)7月13日、大阪市に生まれる。父は弁護士だった。大阪市立昭和中学校から大阪府立住吉高等学校に進む。高校時代、堺屋太一はボクシング部に所属し、モスキート級の大阪チャンピオンにもなっている。高校卒業後は慶応大学法学部に入学するも退学し、2年浪人して東京大学に入学。経済学部を卒業して1960年(昭和35年)に通商産業省に入省。1970年(昭和45年)に開催された大阪万博に関わるなどした。1975年(昭和50年)、堺屋太一は通産省に在職したまま小説「油断!」を発表し小説家デビュー。1976年(昭和51年)、小説「団塊の世代」を発表しベストセラーとなる。この小説がきっかけとなり戦後のベビーブーム世代が「団塊の世代」呼ばれるようになった。1978年(昭和53年)、通産省を退官。著作活動に専念し、小説や、社会、経済の評論本を多数出版。「知価革命」をはじめとする経済評論のほか、NHK大河ドラマの原作となった『峠の群像』などの歴史小説を執筆した。また、官僚時代に大阪万博を成功させた実績を活かし、1990年(平成2年)の花の万博や、1992年(平成4年)のセビリア万博でプロデューサーを務めた。

1998年(平成10年)、堺屋太一は民間人として小渕内閣で経済企画庁長官に就任。第二次森内閣までの約2年半務めた。2002年(平成14年)、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。2004年(平成16年)早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。2008年(平成20年)の大阪知事選挙で「橋下氏を知事にする勝手連」に参加。以降、堺屋太一は橋下徹及び大阪維新の会に様々な形で協力した。2012年(平成24年)、旭日大綬章を受章。2013年(平成25年)、安倍内閣の成長戦略担当の内閣官房参与に就任。2019年(令和元年)、多臓器不全により死去。享年83歳。