野口英世

細菌学者

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野口英世の名言

野口英世の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 絶望のどん底にいると想像し、泣き言を言って絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。

  • 過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。

  • 変えられるものが二つある。それは自分と未来だ。

  • 一番肝心なのはあきらめないということだ。どん底だからこそはい上がるんだ。

  • 家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである。

  • 人は能力だけでは、この世に立つことはできない。たとえ、立身しても、機械と同様だ。人は能力と共に徳を持つことが必要である。

  • 私は少しも恐れるところがない。私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ。

  • この世界には、人間の頭数と同様に、仕事はたくさんあるはずである。

  • どれだけ働いても愉快な心でいれば決して体を害することはない。心に不快さえなければ仕事が大変であっても体を害することはない。

  • 失敗したらまた、がんばればいいんだ。生きている限り何度でも.それが人間の特権だ。

  • 自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。

  • 教えに来たのではありません。習いに来たのです。

  • ナポレオンは、夜3時間しか眠らなかった。彼になしえられる努力が、自分になしえられぬはずがない。

  • 正直であることが最高の手段だ。

  • 忍耐は苦し、されどその実は甘し

  • 人、寸陰を惜しまば、われ分陰を惜しまん。

  • 国は自分一人の力じゃなかなか変えられねえ。ましてや過去なんて絶対に変えられねえものだ。

  • 自分の目から見たら、お母さんはこの世にまたとない貴い神様のような人ですから。

  • 私はこの世に何かを成すために生まれてきた。

  • 障害者であることは、学問においては問題にならない。

  • モノマネから出発して、独創にまでのびていくのが、我々日本人のすぐれた性質であり、たくましい能力でもある。

  • 人生最大の幸福は、一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより、切なるものはない。

  • 志を得ざれば再び此の地を踏まず。

  • 人は、四十になるまでに、土台を作らねばならぬ

  • 名誉のためなら危ない橋でも渡る。

  • 天才なんか。あるものか。あるのは努力だけだ。だれよりも3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。

    出典:  奥村鶴吉「野口英世」

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野口英世について

明治大正時代の細菌学者。伝染病研究所で細菌学を研究したのち渡米し、ロックフェラー医学研究所で蛇毒を研究・また、梅毒スピロヘータの研究で業績を上げた。

1876年(明治6年)野口英世は福島県の貧しい農家に生まれ、幼少時に左手に大やけどを負ったが、苦難にめげず勉学に励む。高等小学校卒業後に渡辺医院の書生となって勉強。1896年(明治29年)上京して高山歯科医学院 (現・東京歯科大学) の学僕となり、その後済生学舎で医学を学ぶ。1897年(明治30年)苦学の末、医師開業試験に合格。北里柴三郎の伝染病研究所の助手補、横浜の港湾検疫官補を務めたのち、1900年(明治33年)野口英世はアメリカに渡り、ペンシルベニア大学のフレクスナーの助手となる。 1903年カーネギー研究所の助手となり,ガラガラヘビの抗毒血清を発明。1904年(明治37年)ロックフェラー医学研究所の研究員となる。

1911年(明治44年)野口英世は梅毒病原体スピロヘータの純粋培養に成功。この成果でノーベル医学賞の候補となるが、受賞はならなかった。1918年(大正7年)黄熱病の病原体を発見したと発表。その証明のため1928年(昭和3年)野口英世はアフリカのアクラに出張し、現地で黄熱病にかかって死去。当時、科学のため、人類のために殉職したとして世界中で大きく報じられた。しかしながら、この黄熱病の病原体発見は誤りであったことが後の研究で明らかになっている。