湯川秀樹

物理学者。日本人初のノーベル賞受賞者

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湯川秀樹の名言

湯川秀樹の過去の名言をまとめた名言集です。

  • 独創的なものは、初めは少数派である。多数というものは独創ではない。

  • 新しい真理の発見のときは、つねに少数派である。それが正しければ多数派になる。

  • 取り返しのつかない大きな失敗をしたくないなら、早い段階での失敗を恐れてはならない。

  • 科学研究も人間の知的好奇心にもとづく創造であって、芸術やその他の文化活動と同じものだ。

  • 科学者が科学上の仕事で世界のために尽くすことが出来るのは本懐だと思います。

  • 今日の真理が明日否定されるかもしれない。だからこそ、私どもは、明日進むべき道を探し出すために、時々、昨日まで歩いてきたあとを振り返ってみることも必要なのである。

  • 色々な事にあれこれ手を出すよりも、一つの事に集注した方が成果が出る。

  • 科学の歴史は裏から見れば失敗と停滞の歴史でもある。しかし早い段階での失敗がなかったら、成功も飛躍もなかったであろう。

  • 現実は予想できぬように豹変する。あらゆる平衡は早晩打破される。

  • 現実は、痛切である。あらゆる甘さが排除される。

  • もっと日本の若い科学者をアメリカに留学させなければなりません。私も研究のための物資を日本に送ることができたらと思いますが。。。

  • 君たち全員に優の成績をあげるけれども、勉強は自分でしなさいよ。

  • 私としては科学者としての自分の研究によって最高の表彰を受けるという名誉を担ったので、身にあまる光栄と思っています。

  • ただ流行を追っているというのは、つまらない生き方です。

  • 科学は絶えず進歩している。常に明日の飛躍が約束されている。

  • 自分の能力は自分で使ってみなければ、わからない。

  • 一つも失敗したくないなら、人の真似をする他ない。

  • 日本はいま困難が山積しているので、少し元気がないかも知れませんが、国民全体が大いに奮起して立ち上がって行こうと非常な努力を払っておられることは大へん結構なことでうれしいと思います。

  • 未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。

  • アイデアの秘訣は、執念である。

  • 現実はその根底において、常に調和している。詩人のみがこれを発見する。

  • 一日生きることは、一歩進むことでありたい。

  • 現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。

  • 真実は、いつも少数派。

  • 人類の利益になる研究を続けていくのは喜びです。しかし日本にはあらゆるものが不足しており、科学研究も劣っています。

  • 私の研究分野である物理理論の立場からすれば日本の科学者は米国ばかりでなく世界各国から尊敬されていますから、日本の皆さんも力を落とさず大いに奮闘して勉強してほしいと思います。

  • 今のところ来年の六月まで米国におることになっています。日本へ帰らなければなりませんが、研究の便宜からいうと米国の方が落ち着いて仕事が出来ます。

  • メルヘンといいますか、子供の世界というんですか、そういうところへ戻りたいという気持ちがいつもあるんです。

  • 現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。

  • 地に空に平和を。

湯川秀樹の名言を見ている方へお薦めする名言

湯川秀樹の残した名言を分析し、それらの名言の傾向に近い名言を厳選して紹介します。

湯川秀樹について

湯川秀樹は昭和初期に活躍した学者。原子核内の陽子と中性子の間に存在する微小な粒子「中間子」が存在するとの理論を発表。のちにそれが実証され、ノーベル物理学賞を受賞。日本人で初めてのノーベル賞受賞者となった。

1907年(明治40年)東京府東京市麻布区市兵衛町(現・東京都港区六本木)生まれ。父は地質学者だった。父の京都帝大教授就任により1歳で京都市に移住。以降は大学まで京都で育ち1929年京都帝国大学物理学部物理学科卒業。大学卒業後、湯川秀樹は京都帝国大学の講師となり学者の道に進み、1933年(昭和8年)大阪帝国大学助教授に就任。1935年(昭和10年)「素粒子の相互作用について」を発表し、中間子が存在することを理論として予言する。1932年にイギリスのチャドウィックによって中性子が発見され、原子核が陽子と中性子とからなることが明らかになっていたが、陽子・中性子がどのように結びついているかが物理学の課題となっていた。湯川秀樹は陽子・中性子を結び付ける未知の力の場があると推測し、ここにある粒子を「中間子」と呼んだ。

1940年(昭和15年)京都帝国大学教授に就任、同年中間子に関する論文により学士院恩賜賞を受賞。1947年(昭和22年)イギリスの物理学者セシル・パウエルの率いるチームが中間子を発見したことで、1949年(昭和24年)湯川秀樹はノーベル物理学賞を受賞。アジア人としては3人目、日本人としては湯川秀樹が初めてのノーベル賞受賞となった。1953年(昭和28年)から京都大学基礎物理学研究所所長に就任。1981年(昭和56年)死去。享年74歳。